外国語としての日本語
アーサー・ビナードさん

 自分の一番得意な言語とは違う言葉で、自分を表現してみよう、と思った事はありますか?
 あなたが日本人なら、例えば英語で――。あなたがイギリス人なら、例えば中国語で――。あなたがブラジル人なら、例えばハングルで――。
 わざわざやりにくいやり方を選ぶことないじゃない、と言う人がいるかもしれません。でも、その「やりにくいやり方」でしか生まれないものがあります。その「やりにくいやり方」に他ならぬ日本語を選んだ、詩人、アーサー・ビナードさんにお話をお聞きしました。



 言葉に真摯な人である。表す対象に、その形のまま、その大きさのまま、一番ピタッと来る言葉を、探そうとする。大げさに言おうともしない、わざと小さく言うこともない、それを表す、ちょうどぴったりの言葉を、ちゃんと考える。そこに、手は抜かない。

Arthurleftlong_1 「自分が書いているものが『伝わるかどうか』というのが、一番の基本だね。難しいことをやさしく表現するのは詩人の仕事だけど、やさしくいうために浅くしてしまったら、身も蓋もない。自分が感じていること、考えていることが、読者に届くかどうか……。『分かる』って言われたとき、とてもうれしいですね」


 その、伝える手段として日本語を選んだ。でも、すぐに日本語にたどり着いたわけではない。いろんな人といろんな言語に出会いながら、飄々と漂ってきた感じさえする。
 「大学2年生のとき、イタリア人の恋人ができて、彼女はぼくより2つ年上で、卒業してミラノに帰った。追いかけてぼくもミラノに行った。それがイタリア語との出会い。話せるようになってから、チェーザレ・パヴェーゼという詩人の作品を読み出して、どんどん引き込まれた。でもやっぱり大学を卒業したほうがいいだろうと思って、アメリカに戻って英文学に再び没頭、それからタミル語に興味がわいて1学期だけインドに行ったんです」


 タミル語との出会い。それがアーサーさんの言語観を揺さぶることになる。
 「新しい文字を覚えていくプロセスが強烈に面白かった。タミル語が少し書けるようになって、アルファベットの代わりに使えることが分かってくると、『これで世界が表せるんだ!』という開放感を覚えた。英語にしろイタリア語にしろ、それまではローマ字しか知らなくて、そのとき自分がアルファベット中毒だったことに初めて気付いた。タミル語の文字が使えれば、たとえ地球上からアルファベットが消えてしまったとしても、自分はどうにか生きていけるんだ、ってそう思ったんです」


 タミル語との別れを惜しみつつアメリカに戻って、卒論を書いていたときに、また新しい出会いがあった。
Arthurcentrallong  「ある論文の中で、20世紀の詩人、エズラ・パウンドについて触れていたんです。パウンドは、英語の長篇詩のところどころに漢字をそのまま入れるという、変わったことをやる詩人。そして、ぼくがたまたま読んだその論文に、漢字がどういう文字かが書いてあったわけ。初歩的な、漢字には『へん』と『つくり』があって、といった簡単なものだったけど、タミル語をやったばかりで、文字への興味があって、脳味噌もやわらかくなっていた。
 タミル語の文字はローマ字同様、音を表す。漢字は音といっしょに意味も持つ。形が意味を抱え、音もはらみ、部品を組み合わせただけではなく、それらを超えた一つの生物のようだ。考えれば考えるほど、漢字をやらないわけにはいかない、と」


 卒業できることを確認し、卒業式を待たずに来日。そのときには少ししか、日本語は話せなかった。外国語を本当に自分のものにするためには、何が大事なのか。
 「耳から入ってきた言葉が頭の中でこだまして、それがどういう意味なのか分からなくても、何度も繰り返される。そしてあるとき分かったり、あるいは分かったつもりになったりして口に出してみる。赤ちゃんが言葉を覚えるときも、最初はこの『こだま』から出発するんじゃないかと思うんです。頭の中で、音と意味がもみ合い、ゴシゴシこすり合って、合体したりして、その『言語風呂』をどれだけ濃く、豊かなものにできるか、そこが大事ですね。風呂の『効能』を生かすためには、五感をフルに使わないと。
 英語を日本語に訳し、日本語を英語に訳して、行ったり来たりしながら習得していくやり方もあるけど、それだけだとどうしても浅くなってしまいます。もちろん翻訳は必要ですけど、それだけでは、いつまで経っても英語を通して見た日本語の域から出ることができない。どっぷりと『入浴』しなければ、かさかさの翻訳調になってしまうんです」


 日本語で詩を書く――自分を表現するのに、なぜこの方法を選んだのだろうか。日本語はアーサーさんにどう映っているのだろうか。
 「日本語で書いていて、ありがたく思うのは選択肢がいっぱいあることですね。数え切れないほど多くの表現者が今まで、長い年月をかけていろんな形で日本語に命を吹き込んできたおかげです。それがこんなに豊かな選択肢を作り出したんだ。そして日本語の中に、その先人たちの視点が入っていて、日本語で書くことによってぼくのものの見方が変わる。違った視点を得るというのが、詩の出発点なんです」


Arthurrightlong_1  違う目線を得るという意味で、何か具体例はありますか?

 「例えば、日本語の『窮鼠猫を噛む』ということわざは、英語にはない。でも、考えてみれば『テロとの戦い』や米国と英国の帝国主義とぴったりつながるし、社会の弱者を切り捨てて行き詰まった犯罪対策にも光を当てることわざです。日常生活でもこの知恵が必要な場面がたくさんあって、普遍的で大事なことなのに、英語にこれを表す言葉がないなんておかしい。だから翻訳が必要だ。“A cornered rat will bite the cat.”この新しいことわざがもし英語の中に棲息して、知られていけば、言語がちょっとだけ広がることになる」


 言葉に真摯に向き合ってきたアーサーさんだからこそ、言葉に対する危惧もある。
 「ファーストフードが跋扈する世の中では、言葉も貧しくなる。ファーストフードの企業って、「あなたの個性に合わせます」みたいなことを売り文句にしながら、結局はハンバーガーかチーズバーガーかチキンナゲットという絶望的なメニューでしょう?あんなものを食べていると鈍感になってデブるだけ。本来なら、食は無限に可能性をはらんでいるはずなのに、与えられたつまらないファーストフードのほうがてっとり早かったりする。
 同じことが言語的についても言えるような気がするんです。無限の可能性に目を向けず、自分で作ることを放棄して、与えられた言葉を転がして、ただ消費する。言葉をそんなふうに使っていると、思考停止状態に陥る」


 では最後にアーサーさんにとって日本語とはどんな存在ですか?
 「ぼくにとって日本語がどんなものかと言っても、そんなことどうでもいい、というか、あまり興味ないですね。それより、『日本語にとってはぼくってどんな存在か』のほうが大事じゃないかと思います。
 要するに、『太平洋にとってはタコの一匹がどんなものか』というような質問だったら、ぼくは大いに興味がある。『森林にとってはシャクトリムシ一匹ってどんな存在か』、それから『日本語にとってはぼくという一匹ってどんななのか』――。実体に即して、言葉を捉えなければならない。末永く日本語の中で、棲息を続けたい」



 「言葉は、生活に根づいていないと、いずれ枯れてしまう。常に『市井の人』として学ぶものだ」――そう語るアーサーさんは、とてもしなやかに、それでいて真剣に、言葉に向き合っている。アーサーさんとお話していると、言葉を話す自分が特別なもののように思えてくる。自分の言葉を大切にしようと思わせてくれる、言葉の求道者である。



Arthurface_3 Arthur Binard (アーサー・ビナード)
 1967年、米国ミシガン州生まれ。コルゲート大学英米文学部卒。1990年に来日、日本語での詩作を始める。
 2001年に詩集『釣り上げては』(思潮社)で第6回中原中也賞受賞。絵本に『くうきのかお』、翻訳絵本に『ダンデライオン』『どんなきぶん?』(以上、福音館書店)、『カーロ、せかいをよむ』『カーロ、せかいをかぞえる』(ともにフレーベル館)。2005年には『日本語ぽこりぽこり』(小学館)で講談社エッセイ賞受賞。最新作に『出世ミミズ』(集英社文庫)。

6月 22, 2006 |

ドラマを読む、ということ
中町綾子さん

 日大芸術学部助教授の中町綾子先生の研究分野は「テレビドラマの表現分析」。要するに「そのドラマが何を言っているのかを読み解く」研究である。ドラマが学問になるの?そんな声が聞こえてきそうだが、あなどるなかれ。夜ごとテレビで繰り広げられる、さまざまな「ドラマ」は、想像以上にいろんなことを教えてくれる。

 日大芸術学部放送学科。脚本家になりたい、放送作家になりたい、とにかくテレビに関わりたい、そんな学生が日本一集まってくる学科だろう。そこで、「テレビドラマの表現分析」を専門にする。
Longleftside_1  「私の研究は、文学の批評と似ているかもしれないですね。小説を読むように、ドラマを読み解いていく。表現分析と言うと、表現技術の分析などテクニック的な分析と受け止められがちですが、実際は少し違います。作る人にも思いがあって、受け取る人にも思いがある。それが表に現れたのが、文字通り『表現』だと思います。その表現に写された様々な気持ちを読み取っていく作業をしています。ドラマは、セリフ、物語、映像、その3つが混ざり合った複合的なものだから、それぞれ1つだけでは語れないんです」


 よほどのドラマ好きかと思いきや、そんなこともない。ドラマを本格的に観始めたのは、大学進学のために上京してからだと言う。そこには、まぎれもなく「東京」があったからだ。
 「地方の出身で、東京に対する憧れは強かったんです。でも、東京に来てみたら、それまで憧れていた東京は実際の東京の街にではなく、ドラマの中にあった。私が東京だと思っていたものは、ドラマを通した東京だったって気付いて愕然としました。私の東京はドラマの中にしかないんだっていうあきらめと、だからこそ生まれたドラマに対する憧れ。再放送のドラマも含めてずいぶんと観ました。あんまり憧れていたから、東京を日常に、現実の生活の場にしたくないって気持ちもあったのかもしれない。ドラマの中の東京は夢心地の部分も残していてくれて、リモコン1つで観られるお手軽さもあるでしょう? その、程よくお手軽でキラキラした東京を、テレビの中で楽しんでいたんだと思いますね」


 テレビで観る東京への憧れ。それは地方出身者の多くが持つものだろう。テレビドラマはいつから東京を描いてきたのだろうか。
 「日本のテレビドラマの歴史は、“夕餉前”(1940年・脚本伊馬鵜平)から始まりますが、その舞台は東京の下町の家庭です。それから、人気のあったホームドラマ、“ありがとう”(1972年・脚本平岩弓枝)や“寺内貫太郎一家”(1974年・脚本向田邦子)も、『日本の家庭』の姿とは言いつつ、やっぱり東京の家庭を描いていました。テレビドラマは、創成期からずっと東京で生きる人を描いてきたわけです」


 東京を舞台にしながらも、その時々でドラマが映し出すものは変わっていく。それも、社会の雰囲気、そのときの人々がどんなことを考えていたかまで、そこから読み取れるという。特にヒットドラマを振り返れば、その流れは如実に現れる。
 「『トレンディドラマ』は最もヒットしたドラマスタイルのひとつです。“抱きしめたい!”(1988年・脚本松原敏春)に始まるフジテレビの恋愛ドラマです。それ以前は脚本家がドラマの世界観やテイストを担っていましたが、トレンディドラマではプロデューサーが時代の雰囲気を積極的に盛り込むことがドラマの魅力となりました。

 ストーリーの原型は『複数の男女がグループ交際の中で、都会の華やかな恋を楽しむ』というものです。トレンディドラマの生みの親、フジテレビの大多亮プロデューサーが『トレンディドラマの三大要素は、衣装と音楽とロケーションである』と言っています。まずは登場人物の着ている衣装が、お店に売っていて実際に買える洋服であること。ロケーションというのは場所。登場人物たちは、渋谷や表参道など、現実の都市で動きまわっている。音楽というのは、ドラマの中で流れる音楽が実際のヒット曲であること。つまり、ドラマが現実の消費と結びついたんですね。

 自分にも手の届きそうな生活の、一つの選択肢を提示するという意味で、トレンディドラマは『カタログドラマ』とも呼ばれていました。カタログを見て買い物をするように、身近な夢を楽しむ。そんなリアリティーがあった。景気がよくて、消費に対する好奇心が旺盛だった、まさに飽食の時代を映し出したドラマですね」

Longrightsidebig_1  「その後、『純愛3部作』が作られました。“素敵な片思い”(1990年・脚本野島伸司)、“東京ラブストーリー”(1991年・脚本坂元裕二)、“101回目のプロポーズ”(1991年・脚本野島伸司)の3作で、いずれもヒットドラマです。これはグループ交際ではなく、1対1の交際。トレンディドラマの華やかさよりも、一人の人を想う、その誠実な恋を描いたドラマです。また、バブル崩壊の頃ともちょうど一致しているので、恋愛ゲームの高揚感でなく、地に足を付けて育む着実な愛に関心がシフトした表れだと思います。このヒットによって、『月9』というドラマの放送枠を指す言葉が定着しました。一つの言葉を生む程のブームとなったわけです」

 「その後、三谷幸喜さんの“警部補 古畑任三郎”(1994年)、“王様のレストラン”(1995年)に代表される『キャラクタードラマ』が人気を得ました。登場人物のキャラクターを詳しく描き込んで、そのやりとりの中から心の動きや物語を見せていくドラマです。そこに恋愛の要素はほとんどありません。この流れは、バブル崩壊後、人々が都会に出て遊ぶことにあまり夢を持てなくなったことから来ていると思います。自分も都市の舞台に立って、そこで恋愛をしてという物語には共感できない。でも、日常である職場を見渡してみれば、周りには変な上司がいたり、口うるさい人がいたりして、その中の一人として自分もいる、そういうどっしりとした自分を意識した時代ですね。

 そういう意味でキャラクタードラマは『お仕事ドラマ』とも呼ばれていて、“ショムニ”(1998年・脚本一色伸幸)、“ナースのお仕事”(1996年・脚本両沢和幸)、“HERO”(2001年・脚本福田靖)などもこれに当たります。遊ぶことによっては自分の生きがいを感じられない、恋愛によっても感じられない、でもとりあえず仕事はしている、その共感を得たドラマです」

 「最近のブームといえば、“冬のソナタ”(2003年)に代表される韓流ドラマですね。職場ばかり見つめていても夢がない、なにか現実離れした夢を見たい、その願いを叶えたのが韓国のドラマだったと思います。外国というロケーションだから許される非現実性。そこに懐かしさが加わった。韓国ドラマは日本のトレンディドラマで培った技法を真似してるだけじゃないか、という見方をする人もいるんですが、トレンディドラマの時代に観ていた高度な映像表現を、視聴者が懐かしく感じたのが韓国ドラマのヒットの一因だと思います」


 ドラマの変遷を見れば、社会の流れが分かる、日本人のメンタリティがどのように変わってきたかが分かる、それはなぜだろうか。
 「テレビは広告収入で成り立っています。多くの人に観てもらうことで、より高い広告効果が得られる。その前提はもう揺るがせません。だから、テレビドラマも高視聴率、ヒットを目指して作られます。ヒットを意識するということは、その時々にテレビを見るだろう人の最大公約数を捉える、視聴者の多くがどんな感性を持っているかを掴もうとすることになるわけです。結果としてヒットしたドラマは、その大衆、マスを掴むことにやはり成功していると思います。ドラマを観る理由として圧倒的なのは、『共感』つまり『自分も同じと感じる』という事ですから」


 作り手がマスを掴もうとする、その一方で、テレビドラマは作る方も観る方もどこかで個人的なところを残している、だからこそ心に響くメッセージになる。
 「ドラマはマスを捉えようとする宿命にありながら、作り手個人のメッセージを、視聴者個人に届けようとする、そういう個のやりとりに支えられています。大きな流れで受け入れられたって言っても、観ているときは一人で観ている。一方、脚本家だって一人の個人として何かを感じて、それを表現する。観るときも作るときも究極は一人です。受け手の個に響く作り手の個の強さ、それぞれの個がないと、大きなヒット、訴求効果は生まれないと思います。そう考えると、ドラマは感性の表現、感性のメディアなんだと改めて思います」

 視聴者への脚本家のメッセージ、それは登場人物のセリフに表れる。登場人物の言葉にのせて、伝えたいメッセージが届けられる。その、テレビドラマの中の言葉は「関係の中から生まれてくる言葉」だと中町さんは言う。

Longleftsidebig_1  「演劇や小説と比べると、テレビドラマの言葉が見えてきます。演劇の言葉は、人間の営みを状況として語っています。登場人物は自分がいまどういう状況に置かれているかを言葉で説明します。一つのステージの中で変わる場面を、今はこういう状況で、と言葉のやりとりで伝えていくわけです。だからリアルなセットがなくても楽しめるんですね。

 小説の言葉は、気持ちを表現したものが圧倒的に多い。普通に生活していて、自分の気持ちって全部言葉にしないですよね。それを小説では地の文でいくらでも表現できるんです。

 テレビは気持ちって喋らないんですよ。私が感じているのはこうで、そのときどう思ったっていうのは、具体的なセリフとしては語らない。状況も、リアルに描けるからそれも語る必要はない。では、言葉は何のためにあるかというと、シンプルに話す相手に向けられている。人と人との関係をつむいでいくのがドラマの言葉なんです。一人の人間が目の前の相手に対して、その瞬間、何を言えるか、そこがテレビドラマの表現の要になるんだと思います」


 テレビドラマは社会を映し出す。そう言われても、そんな風にドラマを観ることは少ない。ドラマはどんな風に社会を写していくんですか?
 「大まかに言えば、ドラマの主人公像に社会が現れると思います。物語の中で主人公は何かしらの形で問題解決をしている。その解決の仕方に時代性が現れます。でもその時代がすぐに反映されるわけではなく、ちょっと遅れて表現されることのほうが多い。そういう意味では、テレビドラマって時代の半歩後を行くメディアなんです。

 例えば、今年の4月から6月に放送されたドラマに30代独身女性が主人公のドラマが3本並びました。“anego”(脚本中園ミホ)、“汚れた舌”(脚本内館牧子)、“曲がり角の彼女”(脚本後藤法子)は「30代負け犬ドラマ」と言われたんですけど、これは、酒井順子さんの『負け犬の遠吠え』にちなんだ呼び名です。本が話題になったのが去年ですから、まさに遅れてやってきた感じです。

 30代の未婚女性は仕事と結婚の間で悩んでいて、でも決してそういう状況をうじうじ暗い感覚で受けとめず、明るく笑いとばしていいんだという感覚の本が出る。そして、そういう意識改革を受けて、テレビドラマでも新しい主人公のスタイルが生み出されたわけです。新しい意識、感覚を具現化した一つのスタイルとしてドラマが作られる。そういうスタイルをうまく示せたときに、テレビドラマも一つの社会を写していると言えると思います」

 視聴者に生活のパターンを提示する「カタログドラマ」があったように、ドラマは視聴者の何を満たしてきたんですか?どうして人はドラマを観るんですか?
New_2  「自分を確認するツールだったと思います。多くの人に対して、というのがテレビの前提なわけですから、それに照らし合わせて自分がどうであるか、一緒であれば安心するし、とりあえず確認してみようという部分ですね。時代に関してもそうです。今、自分は何を感じているんだろう、どんな気持ちで生きているんだろうと確認する。

 番組評論家の松尾洋一さんが、『テレビドラマは情動のジャーナリズムである』『気持ちの移り変わりを記録するのがテレビドラマ』そういう風に言っています。テレビというメディアの役割に、ドラマの表現手段がうまくフィットしたときに、テレビドラマは日記のように綴られた記録として意味を持ちます。だからこそ、テレビドラマ自体が『今(の感覚)』を探しているし、見ている人もそれを求めていると思います」


 視聴率が上がらず、テレビドラマ冬の時代と言われる。そんな中で、これからドラマはどんな役割を担っていけると思いますか?
 「テレビが一家に一台から個人に一台になって、すごく個人的な生き方をしている時代だと思います。それぞれ違うテレビ、箱を目の前にしている。でも違う箱だけれども、同じ番組を見ているということはよくある。そこが可能性なのかな、という気がしています。例えば、離れて暮らす親子が別々の場所で同じ番組を見ている。そうすれば、普段はまったく違うサイクルで生活していても、テレビが共通の話題となって、お互いを繋ぐきっかけになります。違う箱なんだけれど個人個人が同じものを見ているってことは、ささやかだけど結構強力に人と人とを結び付けるんじゃないかと思います。そういうことは、これからも期待できそうです。そういう意味で不思議な魅力はこれからも持っていてくれるんじゃないかな」


 「カァンチ」。この言葉を聞くと“東京ラブストーリー”を思い出す。永尾完治と赤名リカの、あの切ないラブストーリーを思い出す。そして、それを観ていた頃の自分を思い出す。そういう、いろいろな事を喚起するのが、たった一言の、ただ人の名前を呼んだだけの言葉だったりする。それが、紛れもないテレビドラマの力だと思う。テレビドラマに社会が映されるのと同様に、そのときの自分が映されている。テレビドラマがいつの時代も人の心を惹きつけてやまないのは、そんな所があるからだと思う。



中町綾子(なかまち・あやこ)
1971年石川県生まれ。日本大学芸術学部放送学科卒業、日本大学大学院芸術学研究科修士課程修了。現在、日本大学芸術学部助教授。専門はテレビドラマ(番組)表現分析。ギャラクシー賞、日本民間放送連盟賞、TVぴあドラマ大賞、テレビステーション・テレビドラマアワードなどの審査員を務める。

◆お知らせ◆

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 1970年代から現在までの名作ドラマ21本から、これぞ名セリフを取り上げて解説。


●「東京ラブストーリー」ドラマ史のエポック!「カァンチ!」に弾ませる恋する気持●「北の国から」これまた泣けるセリフが満載!とっておきの名セリフとは●名言の宝庫「3年B組金八先生」15歳の母妊娠時の名セリフとは●「太陽にほえろ」の「なんじゃこりゃぁ!」はいったいどんなセリフだったのか●「僕は死にません」野島伸司/武田鉄矢の愛の叫びは本物です●「王様のレストラン」 三谷幸喜が紡ぐ奇跡のドラマ。元気になれる格言・名言●「木更津キャッツアイ」にぎやかな仲間との時間の奥にあるクドカンのシャイな気持

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9月 29, 2005 | | コメント (0)

ドラマのコトバ
大森美香さん <後編>

 前回に引き続き、脚本家・大森美香さんにお話をお聞きしました。今回は、「ドラマのコトバの作り方」。
 「作り方」なんて、一言で言えるわけないことは分かっている。でも、聞いてみたい。   どうしたら言葉でストーリーを作れるんですか?



oomorimika-05 
ドラマに必要な言葉ってどんな言葉ですか?
 「理想的なことで言うと、すごく日常的な言葉なのに、言われるとズキッとくる、胸に残るような言葉。それが共感っていうことだと思う。あまり日常過ぎてドラマには出てこない言葉でもドキッとさせる、急にそのセリフ一つで、今まで何気なく見ていたのに『あー私もそう!』って引き込むような、そんな言葉が好きだし、そういう言葉を入れたいです。
 それに、テレビは何かしながら見ていることもあって、画面を見てない場合も多い。そんなときに頭の中にするりと入り込んで、画面に目を向けてもらえるような言葉が必要かなと思います」


 するりと入り込む言葉、その言葉を作り出すために、セリフを口にしながら書く。文字で読む言葉ではなく、音で聞く話し言葉を作り出すために、まずは自分で言ってみる。
 「きっとこんな風に読んでくれるだろうなって、まがりなりにもその役者さんのモノマネをしながら書いてます。もちろん実際の演技を見ると、私のモノマネなど比べ物にならないぐらい素晴らしいんですけどね。読んでみると、読みにくくないか、言ってて気持ち良いか悪いかが分かる。で、自分が読みにくかったら、言葉につっかえるセリフにしたり、息を切らしたりさせちゃうんです」


 
息を切らすほどのセリフの掛け合い。それが大森さんの持ち味にもなっている。
 「ゼェゼェ息を切らすほど一気にセリフを言わせちゃうなんて、冒険でした。最初は“カバチタレ!”で、常盤貴子さんと深津絵里さんのやりとりに息つく暇もないような掛け合いを書いたんです。深津さんが法律家の役で、法律を武器に戦う女ってイメージで、常盤さんは自由でタフなウェイトレス役だったから、もう喋りだすと口げんかなのか仲が良いのかわからないみたいな。そうしたら、お二人の演技力のおかげで、けっこう新鮮だったようで面白がってもらえて。結果的にすごくチャーミングなキャラクターになってうれしかった」


 
映像にする以上、登場人物をいかに魅力的に見せるかも、ドラマの大事な要素である。
 「キャラクターは重視しますね。脚本を書く前にあらすじを決めるんですが、ストーリーを動かしたいと思っても、この人はどうやったってこんなことはしない、こんなことは言わないって思ったら、それは絶対守りたい。登場人物を、ストーリーを転がす駒のようなものにはしたくないんです。ほんのちょっとしか出てこない役でも、これがあるからこれを言うって理由がちゃんとあって欲しい。それが脚本の筋を通すってことだと思います」


 
“不機嫌なジーン”、“ランチの女王”のように、自分でゼロからストーリーを作り出すオリジナルの脚本だけでなく、“カバチタレ!”、“ロングラブレター~漂流教室”、“きみはペット”、“ニコニコ日記”のように、原作のドラマ化の脚本も手掛ける。
 「原作があるものに関しては、原作をどうやったらより活かせるかに頭を使います。どこに光を当てて、どこを際立たせるか。私はその原作に惚れこんで書くので、自分が感動したセリフだけはそのまま使う。だから、そのセリフをもっと感動的に見せるにはどんなシチュエーションがいいだろう、と考えるんです。そういうこともわりと好きなんです。
 オリジナルの場合は、キャラクターから何から全部自分で作り出すので、より自分の理解できるキャラクターに近づけられる。全部1人でやらなくちゃいけない、それはもちろん大変だけど、作り出す醍醐味は大きいです。賞をいただいた“不機嫌なジーン”はオリジナルでしたが、あれは準備期間を長くとってもらえた作品でした。そうじゃなかったらあれだけ調べるのが多いものは手掛けられなかったんじゃないかと思います。今は作り手もスピードを求められている時代なので、すごく贅沢で幸せな仕事でした」


oomorimika-04  テレビドラマの世界に入るきっかけになった、映画を撮りたいという夢も叶った。“2番目の彼女”、“恋文日和~あたしを知らないキミへ”の脚本、監督を手掛けた。ドラマと映画、作り方は違いますか?
 「私の場合は少し違うかなと思います。テレビは何かしながら見ていたり、家族と団らんしながら見たり、家に帰ってきて時計代わりにつけたりとか、意図していなくても見てもらえる、偶然性の高いメディアなので、映画よりもサービス精神を求められる。だから、まずは分かりやすく、引き込みやすく作ります。例えば子供が見てもここを面白がって見てくれるだろうとか、そういうことを考えます。
 映画の場合は多少難解であってもいいかもしれない。お金を払って見に来てくれる。これはとても能動的な行為だから、どうその世界に入り込んでもらうかを大切にします」


 
現在、10月からのNHK朝の連続テレビ小説“風のハルカ”を執筆中。どんなドラマですか?
 「家族が主体のお話です。スタンダードに家族を描きながらも、けっこう恋愛の要素も多くて、ちょっと笑えて、ちょっと泣けて、おもしろいドラマになっていると思います。朝だし、元気に一日を始めてもらいたいから、前向きな、プラスのエネルギーになるようなドラマを作っています。たくさんの方に楽しんでもらいたい」


 
「今後、この賞に恥じない作品を作っていかなければいけないということと、何年後かに、あの時こいつに賞を獲らせて良かった、と思っていただけるように、キャスト・スタッフの皆様の力をお借りしながら、良い作品を作っていけるだろう、と信じていますし、自信もあります」   向田邦子賞受賞の弁である。これから、どんな脚本家になっていきたいですか?
 「今度はこんなことするんだって、意外性のある脚本家でいたい。あっこんな事もやるんだってハラハラさせたい。なんというか、やんちゃでいたいんです。
 そうしてシンプルに楽しんでいただける作品をこれからも作っていきたいし、自分も作るのを楽しみたい。エンターテイナーであり続けたい」


 
「日常の言葉を書きたい。普通の人の普通の人生から、ドラマを作り出したい」   そう言った大森さんの描く登場人物は、どんなシチュエーションに置かれても、みんな一本気で一生懸命生きている。シチュエーションに引っ張られず、人物像は奇を衒わない。素直に臆せずまっすぐに。それはまさに大森さんそのもののように見える。だから、彼女の言葉は、彼女のドラマは、これからも人を惹きつける。


<前編へ>
前編では、向田邦子賞受賞の「不機嫌なジーン」や、脚本家になるまでについて聞いています。



124_2476oomorimika-face大森美香 おおもり・みか
 脚本家、演出家。1972年福岡県生まれ。青山学院女子短期大学藝術学部卒。名古屋テレビ放送勤務を経て、フリーのAD、APとしてフジテレビのドラマ制作に携わる。その間『美少女H・十七歳の記録』(1998、フジテレビ)で脚本家・演出家デビュー。

主なテレビドラマに、『カバチタレ!』(2001、フジテレビ)、『ロングラブレター~漂流教室』(2002、フジテレビ)、『お見合い放浪記』(2002、NHK)、『ランチの女王』(2002、フジテレビ)、『きみはペット』(2003、TBS)、『ニコニコ日記』(2003、NHK)、『不機嫌なジーン』(2005、フジテレビ)などがある。

映画に、『CROSS』(2001、脚本・監督)、『インストール』(2004、脚本)、『2番目の彼女』(2004、脚本・監督)、『恋文日和~あたしを知らないキミへ』(2004、脚本・監督)がある。

2005年10月から放送のNHK朝の連続テレビ小説『風のハルカ』を執筆。2006年正月放送予定の新春スペシャルドラマ『里見八犬伝』も待機中。

8月 25, 2005 | | コメント (0)

ドラマのコトバ
大森美香さん <前編>

 『清潔でリズミカルなセリフで、科学的なテーマに挑戦している。愛と科学を巧みに化合変化させながらドラマを進展させている。遺伝子という科学の世界にドラマ世界を求めたのは、画期的といっていいでしょう。乾杯!』   こう評価され、フジテレビ系で放送されたドラマ“不機嫌なジーン”で向田邦子賞を受賞した。33歳。最年少での受賞である。若手急先鋒、流れをつかんだ脚本家、大森美香さんに聞いた。「ことばでドラマを作るってどういうことですか?」


oomorimika03  この賞を最終目標にする脚本家も多いという。そこに脚本家デビューから8年で駆け上った。
 「こういう賞には縁遠いと思ってたんですよ。すごく大人になって、偉くなって、いつかもらえるといいね位に思ってたので、うれしい!しか思い浮かばない。ノミネートされたときにもびっくりしましたが、受賞になってから、もううれしくてうれしくて。名前が外に出て、急にまわりが動き出して、大変な賞を獲ってしまったとつくづく思っています」


 受賞した“不機嫌なジーン”では、動物行動学の学者と教え子のラブストーリーを、遺伝子のはたらきや動物の習性を絡めながら描いた。月曜9時、通称「月9」の枠には、冒険ともいえる斬新な状況設定。しかし、学問の世界にドラマを見出したのが評価された。
 「月曜9時なら、やっぱり恋愛モノをやりたい、と最初に思いました。そのときちょうど『博士の愛した数式』(小川洋子著、新潮社刊)を読んでいて、教授と学生という関係は素敵だなとか、面白い数字の真理に触れていて、こんな風にちょっと学術的なことを入れてもいいなと。そこで、数学者と助手とか、作家と秘書とかいろんな関係を考えていたときに、プロデューサーから動物行動学はどうだろうと提案されたんです」


 動物行動学   突然出てきた学問のようだがそうではない。以前同じプロデューサーと組んで作ったドラマ“ロングラブレター~漂流教室”を書いたときに読んだ、一冊の本がヒントになった。
 「“ロングラブレター~漂流教室”を書くにあたって、『利己的な遺伝子』(リチャード・ドーキンス著)を読んでいたんです。その時は、人間って難しいな、なんてプライベートでもいろいろ思っていたときで、この本を読んだら、人間ってなんてちっぽけなんだろうって思った。だって、人間は自分の意志で動いてるわけじゃなくて、自分の中にいる遺伝子に指令されて、その遺伝子を増やすために誰かを好きになったり、子どもを作ったりするだけで、だからそんな事で悩んでるのはアホらしいって。でも時々そういう考え方になれるといいなって思ったんです」


 そこから動物行動学に魅せられていく。
 「それから、『利己的な遺伝子』の訳者で、日本の動物行動学の権威でもある日高敏隆先生の本をたくさん読みました。それを読んだら、「動物は単純で人間は複雑」なんて考えはぶっ飛んでしまって。動物はメスをゲットするためにすごくいろんなことをするんですよ。求愛行動なんて、人間のやることとほとんど変わらないというか、動物の方がよっぽど凝ってたり、愛があるように見えたり。こりゃ人間よりもよっぽど複雑かもしれないって。こういうことを知ってすごく面白くて、この面白さを人に伝えたいって思って書いたのが、“不機嫌なジーン”でした」


124_2477oomorimika-light  前の仕事が次の仕事につながって、そんな風に実績と自信を積み重ねてきた。振り出しはテレビ局のOL。制作ではなく、全くの事務を4年ほど経験した。
 「もともと映画を撮りたかったんです。それでとにかく現場を見てみたい、何かを作っている端っこでもいいからそこにいたい、という気持ちが強くて。学園祭みたいな、みんなで何かを作ってそれが一つの作品になるというのが好きだったんです。ものをつくるって、それが形になるって、ものすごい魅力。その世界に行きたくて、OL辞めてフリーのAD(アシスタントディレクター)になりました」


 ポンと飛び込んでみた。テレビ局に所属するADではなく、フリーのAD。番組単位での契約、つまりそのドラマを作っている間だけの契約で働く。ちゃんと仕事をしないと次の仕事が来ないかもしれないという場所で、ドラマの全てを学んだ。大石静、井上由美子、岡田恵和   脚本家の大御所の面々の仕事を間近に見てきた。
 「ADをやってた頃、脚本を読むのが楽しみで楽しみでしょうがなかった。台本ができるとすぐに読み込むんです。こういう小物を用意しようとか、監督にこういう提案をしようとか、そんなことを考えながら。私は脚本を読むこと自体が好きだし、その頃は脚本を書きたいというよりは、『自分だったらこういう風に撮りたいな』とか『こういう言い方でセリフを言ってもらいたいな』とかそういうことを考えていました」


 監督の目線。脚本を書き始めたのも、早く自分で撮りたかったから。テレビ局に所属するADはどんどん監督になるのに、フリーのADはなかなか監督になれない、その現実を見て、何かしよう、何かしなきゃ、と思った。
 「ADとして監督の補佐をしてた2年間の後、ちょっと体を壊して1ヶ月くらい休みをもらったんです。その時に初めて脚本を書きました。なんだか脚本家って偉い人っぽい、じゃあ自分で書いてこれを撮りたいって持って行ってみようと思って。それが深夜ドラマで使ってもらえることになって、脚本・監督デビューになりました」


124_2478oomorimika-right  デビュー作“美少女H・17歳の記録”が認められ、ADからAP(アシスタント・プロデューサー)になる。APになったことで、脚本の打ち合わせに立ち会えるようになった。「脚本家の仕事」がもっと見えるようになった。
 「脚本家って、こうやってプロデューサーと交渉していくんだ、こういう自分の意見は曲げないんだ、でもこういうところはちゃんと譲ってスケジュールに合うように作るんだ、とか作り方のスタンスを目の当たりにして、脚本家ってこういう生き物なんだ、って分かった。
 脚本って、決して脚本家一人で作るものじゃないんですよ。脚本は、プロデューサーの意見、テレビ局の意向、役者さんのスケジュール、その他諸々が絡んで、それに導かれてできる。だから本当に「みんなで作る」ものなんです。そして、その中でいかに自分のやりたいことをやるか、いかに自分が面白がれるようにするかっていうのも一つの醍醐味なんだと学ばせてもらいました」


 
“カバチタレ!”では行政書士事務所、“ロングラブレター~漂流教室”では荒廃した近未来、“不機嫌なジーン”では動物行動学の世界   ドラマの舞台には、一風変わったシチュエーションを選ぶ。大森さんの脚本は、一言でいうと「ニッチ」だと思う。隙間。エッと驚く場所から見事にドラマを描き出す。
 「APをやっていた頃、プロデューサーに『一本だけ書かせてあげる』と言われて書いたのが、“カバチタレ!”でした。ここで人と同じ事をやったら私は埋もれてしまう、蹴られてしまう。こいつに書かせたら誰も続き書けないよ、こいつの代わりはいないよというものを書かなければつぶされる、って思ってました。人と違う事をやって、こんな意外な面白さがあるんだとか、こんなドラマもあるんだとか、こんな人もいるんだと思わせたいって気持ちが今でもあるんです。
 あと、もし私の脚本に個性があるとしたら、やっぱり現場で学んだことにすごく影響されてると思う。私はシナリオ学校で勉強した事がないので、脚本が映像になるところで学んだっていうのが大きいです」


 現場に学んだ、ドラマに必要な言葉ってどんな言葉ですか?
 「理想的なことで言うと、すごく日常的な言葉なのに、言われるとズキッとくる、胸に残るような言葉。それが共感っていうことだと思う。あまり日常過ぎてドラマには出てこない言葉でもドキッとさせる、急にそのセリフ一つで、今まで何気なく見ていたのに『あー私もそう!』って引き込むような、そんな言葉が好きだし、そういう言葉を入れたいです。
 それに、テレビは何かしながら見ていることもあって、画面を見てない場合も多い。そんなときに頭の中にするりと入り込んで、画面に目を向けてもらえるような言葉が必要かなと思います」


<後編につづく>
後編は、大森さんの「ドラマのコトバの作り方」をお聞きします。



124_2476oomorimika-face 大森美香 おおもり・みか
脚本家、演出家。1972年福岡県生まれ。青山学院女子短期大学藝術学部卒。名古屋テレビ放送勤務を経て、フリーのAD、APとしてフジテレビのドラマ制作に携わる。その間『美少女H・十七歳の記録』(1998、フジテレビ)で脚本家・演出家デビュー。

主なテレビドラマに、『カバチタレ!』(2001、フジテレビ)、『ロングラブレター~漂流教室』(2002、フジテレビ)、『お見合い放浪記』(2002、NHK)、『ランチの女王』(2002、フジテレビ)、『きみはペット』(2003、TBS)、『ニコニコ日記』(2003、NHK)、『不機嫌なジーン』(2005、フジテレビ)などがある。

映画に、『CROSS』(2001、脚本・監督)、『インストール』(2004、脚本)、『2番目の彼女』(2004、脚本・監督)、『恋文日和~あたしを知らないキミへ』(2004、脚本・監督)がある。

2005年10月から放送のNHK朝の連続テレビ小説『風のハルカ』を執筆。2006年正月放送予定の新春スペシャルドラマ『
里見八犬伝』も待機中。

7月 25, 2005 | | コメント (0)

ことばを翻す、ということ
金原瑞人さん

 翻訳家という職業があります。英語の文章を日本語に訳す、それって英語で書かれたものを日本語に写しかえるのだから、英語を読む力と同じくらい日本語の表現力も求められるんじゃないか―そんな風に考えて、翻訳家・金原瑞人さんにお話をお聞きしました。

124_2473kanehara-right  翻訳とはどんな作業ですか?

 翻訳という作業は、原文全体を理解した上でその状況を想像して、頭の中で総合したものを日本語で表現するというのが基本だと思います。原文を読んで、その世界を頭で想像して、それを自分の言葉で表現するわけです。

 そこに自分のカラーを出したりするのですか?

 自分のカラーを出すというよりも、出てしまう。やはり自分の文体なんです。翻訳した人間のフィルターを通した言葉にならざるを得ないし、100人いれば100種類の翻訳ができるわけです。

 また、作品に合わせて訳し変える事もあります。原文が歯切れ良く短い文で続くなら、そのリズムを出すようにするし、なだらかな長い文体ならば、その感じを出すように訳すのですが、やはり訳してしまうと自分の文体でしかない。だから自分の文はすぐ分かりますね。

 原作全体に流れる雰囲気が、日本語でも同じように伝わるように訳すんですね。それを壊さないことが大事なんですか?

 そのスタンスもいろいろです。今までに翻訳されていない作品だったら、まず原作の意図や雰囲気に沿った翻訳を心掛けます。何十種類もの翻訳がある場合だと、そこは逆に原文の雰囲気とは離れてもいいから、面白い訳をやってみようと考える事もあって、作品や人によっていろいろだと思います。言ってみれば、よくある芝居なら演出方法を変えて新しさを作ってみようとか、そういうことですね。

 翻訳において一番大切なことは?

 まずは原文の理解です。原文を理解していなければ、日本語に置き換えるなんてできないし、逆に原文を理解してさえいれば、自分の中にある日本語に照らし合わせることができますから。しかしその場合、自分の中にある日本語が貧しいと、結局はだめ。両方が必要でしょう。

 では、その原文を日本語に置き換えるときの言葉の幅、こうも言えるけどこうも言えるというバリエーションは、たくさん用意しておくのですか?

 これは言葉の問題なのですが、active vocabulary(アクティブボキャブラリー)とpassive vocabulary(パッシブボキャブラリー)という言い方をよくするんですが、読んで分かる単語というのがありますよね。読んで意味の分かる単語を100%使える人間はいない。その中の何割かしか文章を書く時には使えないんです。意味を知っているだけの言葉がpassive vocabularyで、身に付いている言葉がactive vocabulary。作家であれ、翻訳家であれ、使える言葉をどのくらい持っているか、そこが大きいと思います。

 そのアクティブボキャブラリーを増やす方法は?

 どれだけの言葉を身に付けているかというのは、読んだ本の量と種類にかなり左右されると思います。だから一つは小中高大までにどのような本をどのくらい読んだか、もう一つは、才能的にその本からどのくらい吸収しているか、そこに関わってくると思います。

 その時期は小中高大に限られるのですか?

 もちろん人によって違うとは思いますが、ぼくの場合、大学を出てから読んだ本はそれほど栄養になっていないような気がします。それまでに読んでいいなとか、すごいなと思って感動した作品から、いろんな言葉が身に付いているような実感があります。

 また、文章も大学を出た辺りである程度固まってしまうような気がします。もちろん表現方法のバリエーションというのは翻訳していれば増えていくのですが、基本的なものはその時期に作られるのだと思いますね。

124_2475kanehara-left  では語彙の問題以外に、翻訳しづらいものはありますか?

 訳しづらいのは、日本語にならない表現ですね。よくあるのは言葉遊びや、ジョークです。英語の音をかけてしゃれを作っている場合とか。どうしても翻訳上削れない場合、苦肉の策はルビをふって、説明風に訳したりします。しゃれだったら、昔は英語のしゃれを日本語のしゃれに作り直すとうまいとか言われたのですが、今それをやると、妙に日本語っぽくなってしまって、逆に違和感があるような気がします。だから今の読者に対しては、ルビをふってそのまま使う方がいいのかもしれません。

 そんな風に注を挟んだり、文中で説明すれば分かってもらえるので、翻訳しづらいものはありますが、どうしても訳せないようなものは基本的にはないですね。

 翻訳の醍醐味ってどんなところですか?

 醍醐味なんてそんな大げさなものではなくて、自分が面白いと思った本を、「ねぇこれ読んでみて」と友達に勧めたくなるようなのと同じノリです。自分が面白いと思ったものを人に教えたい、その単純な気持ちです。

 翻訳というのは2本の柱でできていて、一つは、こういう文化、こういう風俗、こういう場所で暮らしている人々がいるのだという事を伝える事。もう一つは同じ感動を伝える事。全然違うところに住んでいるこういう人たちも、同じように同じところで感動するのだという事が伝わればそれでいい。「文化を伝えたい」なんて大仰な気持ちはありません。一人の作家の一つの作品を読むくらいでは文化は分からないだろうとも思いますし。むしろそういうことに興味を持つきっかけになれば充分だと思います。

 お話を聞いていると、翻訳って案外淡々としたクールな作業のようですが?

 確かに毎日熱くなってパソコンに向かっているわけじゃないです。日本語と英語の壁にいつも苦労しているような人は逆に翻訳家にはなれないと思うし。はっきり言ってしまえば、英語で表現されたものを100%日本語で表現できるかというと不可能なわけです。そもそも日本人の作家が日本語で書いた小説を、日本人の読者が100%理解しているわけではない。その範囲での割り切りは必要だと思います。

 翻訳家っていうのは、例えばかごを編む職人のようなものだと思います。ある一定のリズムで、かごを編んでいく、ここは難しいから少し丁寧にやろうとか、ここはさっさと進められるなとか、そんな感じ。かごを編むように文章を編んでいくわけです。翻訳をするには、まずその原文を客観的に捉える冷静さ、それが第一に必要だと思いますよ。

 クールな言葉の職人、それが話をお聞きした後の印象でした。冷静に英語を日本語に写し取っていき、原文をいかにその感じのまま伝えるか、そここそ翻訳に一番求められている点である、と。言葉と真摯に向き合っている印象を強く受けました。まさに「職人」ですね。


                                        

kanehara-face 金原瑞人 かねはら・みずひと
翻訳家。法政大学教授。訳書に、デイヴィッド・アーモンド『火を喰う者たち』(河出書房新社)、ローニット・ガラーポ『四つの風、四つの旅』(ソニー・マガジンズ)、アレックス・シアラー『チョコレート・アンダーグラウンド』(求龍堂)などほか多数。

6月 25, 2005 | | コメント (0)

音をことばにする、ということ
山口仲美さん

 最近、「オノマトペ」という言葉をチラホラ耳にします。およそ日本語っぽくない響きの言葉ですが、このオノマトペ、実は日本語の中で大活躍している働き者なんです。今回はそのオノマトペ研究の第一人者である山口仲美先生に、お話をお聞きしました。


SCAN0008  「オノマトペ」って何ですか?

 “擬音語”“擬態語”って呼ばれることもある言葉のことです。わたしたちの生活する世の中には、たくさんの物音がありますよね。それから動物や人間の声があります。それらを、「なるほどそう聞こえる」というふうに写したものが“擬音語”なんです。「音を擬える(なぞらえる)語」って書くんですね。でも、“物まね”とは違うんですよ。

 例えば、カラスは何て鳴いているかって聞かれたとします。あなたが、普通の発音には使わないような音を出して、カラスの声そっくりに鳴いてみせたとする。これは、“物まね”ですね。一方、カラスの声を「カアカア」と私たちの使っている発音でうつしてみせたとする。こちらの方が、“擬音語”なんです。では、続いて次の質問。あなたは、うどんをどんな音を出して食べていますか?

 うどんは「つるつる」とか「ズズズッ」っと食べます。

 本当にそんな音を出して食べてる? こういう音出してない?(山口先生がうどんを食べている時の音を再現)

 あ、そういう音立ててます。でも、うどんを食べる音は「つるつる」とか「ズズズッ」って言っちゃいますね。

 それがまさに“擬音語”なんですよ。つまり、落語家がしぐさを真似ながら出す音、あれは“物まね”なんです。“擬音語”は“物まね”じゃなくて、「つるつる」とか「ズズズッ」などと、私たちが普段使っている発音で写しとった言葉です。

 ある程度抽象的にしたものっていうことですか?

 その通り。実際の音や声を、私たちの使っている発音で写し取ろうとしたものが、擬音語なんです。擬音語は言葉ですが、物まねは言葉じゃないんですね。

 それともう1つ、オノマトペには“擬態語”が入ります。“擬態語”っていうのは、音のしない状態や様子を、私達の使っている発音で、いかにもそれらしく写し取ったものです。例えば、静かな状態はどうやって表します? 「シーン」ですね。音がしない状態を音で表す。おかしいですね。でも、「シーン」って言われると、いかにも静まり返った感じが出てますね。「ムチムチしてる」って言っても、ムチムチって音がするわけではないでしょ? でも、つっつきたくなるような感触を表すときに「ムチムチ」って言います。これが“擬態語”です。

 この“擬音語”と“擬態語”を、日本人は「オノマトペ」と呼んでいます。「オノマトペ」っていう言葉は、そもそもはフランス語。英語では、「オノマトピーア」。フランス語や英語では、主に擬音語しか意味しない。フランス語や英語には「シーン」とか「ムチムチ」みたいな擬態語はすごく少ないですからね。そもそも擬音語も、日本語よりずっと少ないんですけどね。でも、日本語には、擬音語と擬態語をまとめて呼ぶ言葉がなかった。そこで、「オノマトペ」という言葉をフランス語から借りてきて、擬音語と擬態語の総称にしっちゃった。だから、フランス語で言う「オノマトペ」と日本語で言う「オノマトぺ」の意味は、ズレているのね。

 ところで、実際の音や声もしくは状態の写し方が、日本語ではこうだけれども、英語や他の言葉だと変わってくるのですか?

 そうです。犬自身はだいたい同じような声で鳴くわけですけど、英語だと「バウワウ」、日本語だと「ワンワン」、韓国語だと「モンモン」、タイ語だと「ホンホン」になります。どうして国によって異なるかっていうと、実際の声をその国の人が使っている発音で写さなければならないからなのね。それぞれの国の人の発音は違っていますね。写すための道具が国によって違うわけだから、国によって違う言葉になるわけです。

 なぜ日本語にはオノマトペが多いのですか?

 たぶん、日本人が具体的で感覚的なことを認識しやすいということだと思います。展覧会に行って「手を触れないで下さい」って書いてあるのは、かなり日本的な特色。日本人って、何か目新しい物を見ると、すぐに触りたくなる。ケースがなければ、あるいは注意書きがしてないと、必ず触って確かめようとする。つまり、感覚的なのね。“擬音語”“擬態語”って、言葉の中で最も感覚的な言語なんです。

 言葉っていうのは、この世の中にあるすべての物事に与えているわけではない。その民族が認識したものを言葉にする。認識しなければ言葉にならない。例えば、欧米では虫の音なんか機械の音と同じと思う。だから虫の音を写す擬音語がない。認識しないから、言葉にもならないわけです。

 でも、日本人って虫の音でも「リーンリーン」、「ジージー」、「ガチャガチャ」、「スイッチョ」、「チンチロリン」と聞き分けて言葉を与えている。蝉の声でも「ミーンミーン」、「オーシンツクツク」、「カナカナ」と、全部私たちの使っている発音にあてはめて、その声を言葉にする。日本人は、そういう感覚的で具体的なことを認識しやすい。だから、“擬音語”“擬態語”が溢れているんです。

 では、日本人でも感覚が変わると、新しいオノマトペが生まれるんですか?

 そうですね。ですから時代によって、オノマトペも変化していく。大体4割くらいは常に入れ替わって、新陳代謝していますね。

 新しいオノマトペはどうやってできるものなんですか?

long  時代が作るんですよ。例えば、パソコンがない時代には、パソコンの音を写す擬音語がない。電子レンジがない時代には、電子レンジの発する音がない。したがって、それを映す擬音語もない。その時代によって存在する物が違うでしょう? その時代にある物が出す音を写しだそうとして、擬音語が生まれるわけです。だから、擬音語の中身は、時代によってある程度変化していくのです。

 擬態語の方はどうやって変化するんですか?

 擬態語には「その時代に何をよしとしていたか」という価値観が映し出されるんですよ。例えば、30年くらい前だと「つよし君はみどりちゃんを見て頬をポーッと赤らめていた」とか言うけれど、今だと「あの人を見た途端にビビッと来たわ」なんて言う。しとやかで控えめなものがいいとされていた時代は「ちんまりしていてかわいい」とか、「ちびりちびり飲むお酒」とか、そういう様子を表す擬態語がたくさんあるのね。ところが今は女の人でも、ビールを「ガーッ」と飲んで「ブッハー」とやって、タバコを「スパーッ」と吸ったり、辞表を「シパン」と叩きつけたりしても、許される。だから、そういう状態を写す擬態語が溢れてくる。その時代に何をよしとしていたかが、擬態語には実によく表れるんです。

 なるほど。オノマトペを見るとその時代がどんな時代だったかが垣間見えるんですね。では、これからオノマトペが時代によってどう変化していくと思いますか?

 そうね。例えば動物とか虫の声といった自然の声や音を写す擬音語がどんどん減っていって、機械の出す音を写す擬音語が増えてくるだろうと思います。人間の生活する場所が自然からどんどん切り離されて、都市化していく変化を映し出すような擬音語が増えてくる。自然の恵みを感じさせる微風の「そよそよ」がなくなって、ビル風を表す「うぴゅんぴゅーん」なんかが増える。土を踏んで歩くどこか懐かしい感じの「ぺたぺた」「ぱたぱた」が無くなって、代わりに鋭くコンクリートを蹴って歩く靴の音「カッカッ」なんかが増える。それに、自然の中の鳥や虫の声なんかを写す擬音語もあまり見られなくなる。雀が「チュンチュン」、鶯が「ホーホケキョー」と鳴いていたこともすっかり忘れてしまうかもしれない。代わりに都会に強いカラスの声ばかりがはびこったりして。「カアカア」ばかりではなく、「バカー」とか「アホー」と鳴くカラスの声まで出てきたりして。

 擬態語では、どんどん速度が速くなっていく人間の生活を表すものが増えてくる気がする。例えば動作をするときでも「ダダダダダッ」と走る、そういうスピード感を表す擬態語が増えていく。同時に、スピード化によってストレスを感じてイライラする人間の様子を写す擬態語も増えていく。そういえば「いらいら」っていう擬態語は、もともとは棘などがたくさん出ている状態を表していたんですね。それが、人間の尖った気持ちを表すようになったのは、江戸時代くらいからのことですものね。よくないですね、もっと「ゆったり」「のんびり」系の擬態語が生まれてほしいですね。

 でも、日本語にオノマトペが豊かに存在するのだけは変わらないと思います。それは奈良時代からずっとどの時代にも日本語にはオノマトペが豊かに存在し続けていますから。日本人の民族性に根ざしているオノマトペ好きは、変わらない。内容は変わっても、厚みは変わらない。そう思います。

 では最後に、山口先生にとって言葉とは?

 人と人とが仲良くするための道具、分かり合うための道具。日本人が日本人とだけ付き合っていることができた時代には、「以心伝心」が尊ばれたけれど、文化の違う国の人々と付き合わねばならない時代には、それは「甘え」にしかならないのです。「言わなくても分かるだろう」は、相手におんぶし過ぎた甘えです。文化の違う人々には、つねに説明しなくては、分かってもらえないのです。自分を分かってもらうために、言葉を惜しまずに説明する。この態度が必要だと思います。

 オノマトペは、こういう異文化同士のコミュニケーションには向いていない。感覚的過ぎる言葉なので、最初は理解してもらいにくい。でも、本当にその国の言語に習熟した時には、感覚的に理解できるすばらしい言葉になるのです。オノマトペの通じ方で、その土地の人になりきったかどうかが判定できるんですよ。

 言葉はその社会を写す鏡だ、と言われます。オノマトペはその最たるもので、「その時代に何があったか」「何をよしとしていたか」からその社会の移り変わりを読み取ることができます。山口先生に「何でオノマトペを研究しようと思ったんですか」と聞いたところ、
 「オノマトペって幼稚な言葉とされていて、オノマトペを使って文章を書いちゃいけないって言われた時代もあったくらい。でも、日本語の根幹に入り込んでいる言葉だから、いくら嫌っても下品だって言われても、使わなくてはどうしても表現できない部分がある。これを調べたら、何か分かる、そう直感したんです。」
との事。まさに、一番身近なものにこそ、その根っこが表れているわけです。まさに、神は細部に宿りたもう、ですね。



kao 山口仲美(やまぐちなかみ)
1943年生まれ。お茶の水女子大学文教育学部国語国文学科卒。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。文学博士。現在は、埼玉大学教養学部教授。著書に、『犬は「びよ」と鳴いていた―日本語は擬音語・擬態語が面白い―』(光文社新書)、『中国の蝉は何と鳴く?―言葉の先生、北京へゆく―』(日経BP社)、『暮らしのことば 擬音・擬態語辞典』(講談社)などがある。

5月 25, 2005 | | コメント (0)

ことばを感じるということ
黒川伊保子さん

 「話す」「聞く」「読む」「書く」…普段行われている、ことばの使い方です。でもあまり気付かれていないところで、ことばには「感じる」という作用もあります。気付かれないからこそ強い、ことばが「感じさせる」もの。それを研究し、その理論で商品名などのコンサルティングをしている黒川伊保子さんにインタビューしました。

Qどんな研究をされているんですか?

 感性リサーチという社名の通り、通常は数値化したり客観化できない感性を、ビジネスの場に応用できるような科学にする、というのがテーマです。その中でも特に言葉の感性「語感」を研究しています。

 語感というと耳で聞いた音の感じと捉えがちですが、その観点だと恣意的で答が出ない。それこそ感じ方は人それぞれだから。そんな風に、どうしても主観でしかなかった語感を目に見える形にしようと検討していた時に、気づいた事があったんです。それは、語感は音を出すときの口の中の身体感覚につながっているんじゃないか、ということでした。

Q身体感覚?

ihoko2_350-small  タ行の/t/は上あごに舌をくっつけて息を吹きつける音、カ行の/k/はのどをくっつけて息を吹きつける音、サ行の/s/は、舌の上を滑らせた息を歯に当てて歯で擦って出す音…それぞれの発音の時の感覚です。例えば、サ行を発音したときの空気が口の中を流れる感覚は、さーっと風が吹いてさわやかでしょう? その感覚のことです。

Qその語感を体系付ける実際の作業はどんなものなんですか?

比較です。/k//t/はどうか、/s//k/はどうか、と発音時に口の中で起こる事をリストアップして、その相対値を出していくわけです。その集まりで、言葉の語感を計っていくシステムを作りました。

 また、その語感を心地いいと思うかどうかは、男性か女性か、成長ホルモンの出ているときか、生殖ホルモンが出ているときか、その後の成熟安定した脳なのかによって変わることが分かったので、受け手がどのような状態にある人なのか、その2つから語感を捉えました。

 それを、言葉が人に与える印象を計りたい場、例えば商品のネーミングのコンサルティングの場に応用しています。商品のイメージとその語感がマッチすれば、その商品の感性への訴求効果は絶大です。

Q語感をビジネスに生かしていこうという気持ちはもともとあったんですか?

 ビジネスに生かそうと強く思ったわけではありません。でも商品のネーミングとかコピーライティングとか、語感をうんぬんする場面がビジネスの場にあって、そこに私はいつも違和感があったんです。

 ある語感をいいと言う人とわるいと言う人がいる。でも、語感はいいわるいじゃなく、これをどこに持っていくかだって私は思ってた。だめな語感って全然ダメじゃないじゃん、いいっていうけどここにそれほど似合うかなって。

 そこで、この語感は少し弱めたほうがこういう風に似合うから、このことばを選びましょうとか、この商品にはもう少し透明感のある語感が欲しいのでこっちにしましょうとか、客観的に冷静に話せる手段が欲しい、そうするとそれを理論的に確立するしかないと思ったんです。

 でもね、それ以前に、「物理屋魂」のせいだと思う。見えないものの法則を見つけだし、式や数理モデルにしたいというプリミティブな欲求が常にあるんです。ビジネスに関係なくても、きっと、私は語感のモデリングをしたと思います。

Q 黒川さんの理論で分析すると、このWEBマガジンrecre(レクレ)の語感はどんな感じですか?

 まず母音から。「レクレ」の/ku//u/はほとんど発音されない、無声化されているのね、だから母音は最初と最後のeだけのe並びの母音構成です。/e/は舌を下奥に下げる音、だから遠くに感じる音なんです。例えば「アテネ」もa-e-eという母音構成で似ているんですが、eが並ぶと「悠久の時」とか「長い時間」とか「遠い記憶」みたいな印象です。

 子音の/r//l/は、舌を尖らせて花びらみたいな形にして発音する音。そして前歯に舌先を触れさせるときにその舌がめくれるところから、まさに花の印象で、実際「バラ」「サクラ」「ユリ」「ヒマワリ」などラ行音が入る花の名前は多いんですね。だから、/r//l/の音はそのまま華やかな印象を持っています。その中でも「レ」は「スミレ」「レンゲ」のように健気なかわいらしさのある音。「長い時間」に「健気なかわいらしさ」という印象を受ける名前ですね。

Q なるほど。では、黒川さんの研究から、人と話すときの言葉を選ぶセンスを上げることはできますか?

ihoko1_350-long  相手が大勢(マス)でない、1対1の会話においては、ことばは恣意的に選ぶものではないと思います。相手の心を見つめ、自分の心に耳を澄ませば、ことばは自ずから自噴してくるでしょう? そうして出てきた「感じることば」に間違いはありません。

 人は、自分の意識が心地いい言葉を無意識に選んで口にしています。例えばイラク戦争の時期、私達は1日に何回も「イラク」という言葉を耳にし、口にしていました。「イラク」は意識にとげが刺さる音で、人をイライラさせるんです。その同じ時期、「さくら」という曲が1年を通してヒットしました。いくら桜好きの日本人でも真夏に「さくら」を聞くなんて異様な流行だったと思うんですが、「サクラ」は「イラク」とは全く反対の、「解き放たれ、風にひるがえる」音。「イラク」が刺した棘を、「サクラ」が抜き放つという関係が出来ていました。人は潜在的なストレスを解消するために、それとは反対の方向に向かう事が無意識にできるわけで、その力を信じていいんだと思います。

 受け取り側への思いやりさえあれば、個人のコミュニケーションの場には、「心地いい言葉を恣意的に選ぶ方法論」なんていらないと思いますよ。

Qでは最後に、黒川さんにとって言葉とは?

 存在そのもの、宇宙そのものです。

ネーミングといえば、一番身近なのは人の名前です。私事ですが、弘文堂には「サトカ」「サトコ」「サトミ」の女性社員3人がいます。頭2文字の音は一緒で、最後だけみんな違う名前。「黒川さん理論だとこの名前はどんな感じですか?」と質問したところ、
 「/s/は口の中で吹く風を感じさせ、さわやかな知性派な印象。/t/は豊かさや確かさを感じさせる音。だから「サト」とつけば、それだけで頭がよく世渡り上手な印象ですね。その中でも特に「サトカ」さんの「カ」は/k//a/ともに強く前に出る音。ジェットエンジン付きのフルパワーで夢を叶えちゃう名前ですよ」

との事。

 名前の音1つでも、印象は全然変わります。ことばは「意味」でも「文字」でも「発音」でもくくれない、新しい見方があることを今回知りました。新しい見方を得て、全く違って見えることば、そのことばの奥深さを改めて感じました。

                                            

ihoko1_350-small 黒川伊保子 =くろかわ いほこ=
1959年生まれ。奈良女子大学理学部物理学科卒。ことばが起こす感性の研究及びそのコンサルティング会社である、
㈱感性リサーチ代表取締役。著書に『感じることば』(筑摩書房)、『怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか』(新潮新書)、『女たちはなぜ「口コミ」の魔力にハマるのか』(KKベストセラーズ)などがある。

4月 25, 2005 | | コメント (0)

まずはニホンゴ

 ことばってすごい、と常々思うのです。いろんな場面で。で、その「ことば」をつかっている自分ってすごいな、とその次に思います。ことばを知るたびに、自分を知っていっているんじゃないか、という気になります。
 
 例えば……「空気」ということば。空気って目に見えない、手にも取れない、あるかないか分からない。でも、「空気」ということばがあれば、あ、ここには空気があるんだ、これは空気なんだ、と分かります。「空気」ということばがなかったら、多分それはないものとして扱われるんだろうと思います。それがどんなに大事なものでも、生きるのに欠かせないものでも。つまり、ことばはその存在を、それがある、ということを証明してくれるものでもあるんです。だから、何か新しいものが生まれたり、新しいものを見つけたりすると、人はことばで名前を付けます。赤ちゃんでも、星でも、車でも、会社でも、WEBマガジンでも。
 
 そんな事に気が付くと、おぉことばってすごいぞ、と思います。そして、そんな「ことば」を自然につかっている自分は、すごいじゃんと思うのです。だから、もっともっと「ことば」が分かれば、もっともっと自分を好きになるかもしれません。

 
 ということで、まずは日本語…まずは→まざぁで、連載名は「ニホンゴまざぁ」。もちろんmother language(母国語、母語)のまざぁでもあります。また、ことばは全てのおおもとなので、そんな意味でもまざぁです。ニホンゴまざぁでは日本語に携わっている人に、毎月1人ずつその人のことば感をインタビューしていきます。


   第1回目は黒川伊保子さん。黒川さんは新潮新書「怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか」、筑摩書房「感じることば」などを書かれている方です。言葉から受ける印象を体系立てて、その理論を商品のネーミングに応用している「感性リサーチ」という会社の社長さんでもあります。言葉は耳で聞くもの、という考え方を180度変えて、言葉は脳で感じるもの、という新しいことば感を見せてくれます。ことばってすごいなって思うこと請け合いです!

3月 15, 2005 |