小村 智宏

  • Tomohiro Omura
    1965年生まれ。89年、日本長期信用銀行へ入行。長銀総合研究所を経て、99年、三井物産の新研究所設立に参画。現在、三井物産戦略研究所にて社会、経済、産業について幅広く研究活動を行っている。
    小村さんの個人サイト、未来経済研究室はこちらから。
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    未来経済研究室
  • 【未来への経済論】
    このブログを大幅加筆・修正したものが1冊の本になりました。お求めはお近くの書店、アマゾン等のネット書店にて。 4335450281jpg_2

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『未来への経済論』-目次のご紹介

 弘文堂編集部です。
 先日お知らせしましたとおり、このブログが1冊の本になります。

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 「未来への経済論」(1995円[税込] 7月6日配本)

 本書は、現在ブログ上で掲載している原稿と、書き下ろし原稿、コラムからなる1冊となっています。本日は、「未来への経済論」の目次をご紹介いたします。

【未来への経済論 目次】
第一章 経済 社会的分業と市場メカニズム
1 「分業」が経済の基本-エデンの東
2 価格メカニズムと市場の役割-大逆転
3 「いちば」の情景-ローマの休日、太陽がいっぱい
4 通貨の条件-デリカテッセン
コラム:教材としての映画

第二章 仕事 「働く」ということの意味
1 分業の光と影-モダン・タイムス
2 お金の稼ぎ方-ブルース・ブラザース、バットマン・ビギンズほか
3 「やりたい仕事」ができる幸せ-私をスキーに連れてって
4 「失業」という痛み-自転車泥棒、フル・モンティ
5 家庭と仕事と経済と-クレイマー、クレイマー
コラム:映画の仕事

第三章 企業 生産活動の場、儲ける仕組み
1 企業の本質と金融の役割-タッカー
2 企業の多面性-アパートの鍵貸しますほか
3 「企業」への不信感-ショーシャンクの空に
4 企業の存在意義-アザー・ピープルズ・マネーほか
5 株式市場の役割-ウォール街
コラム:映画で出会う芸術と産業

第四章 政府 公共事業と政府の役割
1 公共事業の基本の基本-七人の侍
2 コミュニティによるコミュニティのための事業-素晴らしき哉、人生!
3 公共の利益と規制の役割-ショコラ
4 肥大化した政府の悪夢-未来世紀ブラジル
5 社会的合意形成の難しさ-真昼の決闘
コラム:プロパガンダとしての映画

第五章 進歩 「豊かさ」への道程
1 分業は時空を超える-ターミネーターほか
2 競争と経済発展-ユー・ガット・メール
3 三つの「豊かさ」-ジュラシック・パーク
4 価値としての「情報」-ディーバ
5 豊かさの形と進歩の原動力-プリティ・ウーマンほか
コラム:映画の「豊かさ」

第六章 未来 直面する難題
1 人と自然と産業と-もののけ姫
2 進歩を拒む勇気-刑事ジョン・ブック 目撃者
3 成功の呪縛-ゴッドファーザーPARTII
4 変質する「格差」の構図-メトロポリス、麗しのサブリナほか
5 未来の「私たち」へ-ブレードランナー
コラム:映画は時代を超える

以上です。

お知らせ-書籍の刊行について

弘文堂よりお知らせいたします。

このブログ、『映画でみる私たちの経済』をベースにした書籍が7月上旬に刊行となります。
これまでの17本の連載を加筆・修正し、あたらに12項目、6つのコラムを足した内容となっております。

書名:『未来への経済論-映画で読み解く私たちの行方』
著者:小村智宏(三井物産戦略研究所)
定価:1995円(税込)
頁数:228ページ(オールカラー)

7月6日に配本予定です。
現在、最終作業段階ですが、カバーデザイン、目次等、確定しだいこちらのブログにアップしていきますので、ご覧頂けますと幸いです。

弘文堂・編集部

豊かさの形と進歩の原動力-プリティ・ウーマン、ユー・ガット・メールほか-

 この連載では、何度も「豊かさ」という言葉を使ってきました。映画を通じて経済について考えてきているわけですから、当然のことではありますが、今回はこの豊かさと経済の関係について改めて整理してみたいと思います。

 まずは、豊かさと貧しさの対照が物語のカギになっている映画「大逆転」を観てみましょう。豊かな家庭に生まれて不自由なく育ち、商品取引の会社に勤めるルイ(ダン・エイクロイド)と、貧しい境遇で育ったペテン師ビリー(エディ・マーフィ)の二人の立場が入れ替わったら、彼らはどうなるのか、という物語です。コメディ映画だけあって、そこで描かれているのは、誰もが思い浮かべるような、典型的な豊かさです。

 ルイの日常は、居心地の良い家に、ありあまるほどの美味しい食事、なんでもやってくれる執事、スポーツクラブや会員制のクラブでの楽しい一時。庶民の目から見ると嫌味なほど完璧な金持ちの暮らしです。そこからは、衣食住や身の安全といった基礎的な部分を土台にして、そこに便利さや快適さ、さらには楽しさといった上位の豊かさが上乗せされていく、誰にも共通する普遍的な豊かさの構造を読み取ることができます。もちろん普遍的といっても、誰もが執事や召使を雇ったりはできませんが、それに代わるのが洗濯機や掃除機、電子レンジ、食器洗い機などの機械や器具です。映画「アイ、ロボット」で描かれていたように、汎用的なロボットがさまざまな家事や雑用をこなしてくれるというのが究極の姿でしょうか。そうした機械類を増やして便利さや快適さを手にしていくことは、豊かさの実現の一つの側面です。

 また、映画「プリティ・ウーマン」の主人公エドワード(リチャード・ギア)は、金持ちの度合いではおそらく「大逆転」のルイ以上でしょうが、彼はそれ以外にも、人生を豊かなものにしてくれる大きな財産を持っています。それは、音楽の素養です。彼のピアノの腕前は相当なものなのですが、心に迷いが生じたときにピアノを弾くことで気持ちを静めるなど、ピアノは彼の人生に大きな役割を果たしているようです。また、オペラついても、こんなことを言っています。
「オペラは出会いが大切なんだ。初めてのときに嫌いになってしまうと、オペラは何も与えてくれない。でも、最初に好きになれば、オペラは生涯の友となる。」

 これは彼が、物語のヒロイン、ヴィヴィアン(ジュリア・ロバーツ)を初めてのオペラ鑑賞に連れて行ったときの台詞です。25万ドルのネックレスを付けさせてもらって、リチャード・ギアにリムジンと小型ジェットでエスコートしてもらえば、それは素晴らしい出会いになるでしょう。そんな映画でしか考えられない夢のような出会いはともかく、オペラというのは「出会いが大切だ」というのは確かなような気がします。オペラに限らず、音楽全般、あるいは絵画や小説、映画もそうですが、それについての理解が深まれば深まるほど、そこから得られる楽しみや感動も大きなものになります。何の知識もない初めての出会いのときに、いくらかでも楽しめれば、そこから少しずつ知識を身に付けていくことで、その楽しみはどんどん広がっていくでしょう。ですが、初めてのときに楽しめなければ、それでお終いです。このような、音楽や絵画、映画などに関する知識、いわゆる「教養」もまた、人生の楽しみを深めてくれる財産という意味で、豊かさの一つの形と言えるでしょう。

 教養という豊かさは、それを身に付けるうえでお金や時間に余裕がある方が有利であることは間違いありませんが、本人の努力による部分が大きく、お金だけで手に入るものではありません。「お金で買えない」という意味では、愛とか友情、信頼といった、人間関係における豊かさもあります。映画「チャーリーとチョコレート工場」では、ティム・バートン監督ならではの不思議な世界を舞台に、世界一のチョコレート工場のオーナーながら家族に恵まれない主人公ウィリー・ウォンカ(ジョニー・デップ)の不幸と、ボロ家に住んで日々の食事にも事欠くほどに貧しいけれども、優しい両親と四人の祖父母に囲まれて暮らしている少年チャーリーの、ささやかな幸せが対照されます。また、ロバート・レッドフォード監督の「リバー・ランズ・スルー・イット」や椎名誠監督の「うみ・そら・さんごのいいつたえ」に描かれたような美しい自然に囲まれた暮らしにも、経済的に恵まれていなくても手に入れられる豊かさを感じることができるでしょう。

 ここまで見てきたように、私たち一人一人にとっての豊かさには、お金で買えるものとそれぞれの心の領域に属するものなど、実にさまざまなレベル、さまざまなタイプがあります。私たちの社会や経済全体にとっての豊かさも、それらとの対応ということで考えることができそうです。人々の衣食住や安全といった基礎的なニーズを満たすことからはじまって、便利さや快適さ、楽しさといった、さまざまなニーズに対応した商品やサービスが提供されていること。美しい自然が守られていること。さらには人々が良好な関係を維持していること。これらが『豊かな社会』の条件ということになるでしょう。

 そうした社会を実現するうえで最大のカギとなるのは、経済全体での生産力であり、それを高めていくための「効率化」の概念です。生産活動を効率化することで、私たちはより多くの生産物を手にすることができますし、それほど多くの生産物が必要でない場合には、仕事の時間を短くしたり休暇を増やしたりすることができます。そうした余裕が教養を身に付ける時間を生みますし、人々の良好な人間関係の醸成にもつながることが期待できます。

 生産活動の効率化と生産力の拡充のためには、チャップリンの「モダン・タイムス」では批判的に描かれていますが、多くの人々で仕事を分担し合っていく分業の仕組みを高度化させていくことと、機械の利用を進めること、科学技術の進歩を活用することが基本になります。「エデンの東」で主人公キャル(ジェームズ・ディーン)の父親のアダム(レイモンド・マッセイ)が挑戦した、新鮮な野菜を遠方の都市に運んで売ろうという事業も、異なる地域間での分業を成立させようとする試みでした。いわゆる商品流通のビジネスですが、これもまた社会全体の豊かさに結び付く分業の高度化の一つの形です。

 そして、生産力の向上がある程度まで進むと、今度は商品やサービスの質の向上や、人々の娯楽のための事業が目立ってきます。より便利に、より快適に、そして、より楽しくという潮流です。映画「タッカー」で、主人公のタッカー(ジェフ・ブリッジス)が、斬新なデザインのボディや、安全ガラス、シート・ベルトなどの新しいアイディアを盛り込んだ理想の自動車を世に送り出そうとしたのが、その典型です。サービスの領域では、「ユー・ガット・メール」の主人公ジョー(トム・ハンクス)が経営している大型書店チェーンの例があげられます。彼の店では、チェーン経営による効率化の成果を、商品の価格の引き下げに反映させるだけではなく、広々とした店舗のあちこちにソファを置いて客がゆっくりと本を選べるようにするなど、サービスの向上を図っていました。また、「ジュラシック・パーク」では、驚異的な技術進歩の成果を、生きた恐竜と出会えるテーマパークという、人々の娯楽のために活用しようという事業が描かれています。

 このような動きが歴史を通じて連綿と続けられてきたことで、私たちの社会は、より豊かなものへと進歩してきました。その過程では、生産や生活のための設備や、さまざまな技術、アイディアが次々に蓄積され、それが現在の私たちの豊かさを支えています。そして、現在の私たちも、設備への投資や技術開発、あるいは新しい事業、産業の創出によって、これからの社会の進歩に貢献しているわけです。

 こうした進歩の原動力となってきたのは、一つには、他の人の役に立ちたいとか、新しいことにチャレンジしてみたいといった、個々の人間の強い意思でした。「エデンの東」のアダム、「タッカー」のタッカー、「ジュラシック・パーク」のハモンド、いずれも実ることはなかったわけですが、人々を喜ばせたいという志と、夢を実現したいという思いに突き動かされて、新しい事業に挑んでいきました。

 彼らといささか違うのが、「ユー・ガット・メール」のジョーです。彼の場合、書店チェーンの拡大を純粋にビジネスと割り切っていて、本を売るという事業そのものに特別な志や夢を持っているわけではありませんでした。そんな彼が、顧客に喜ばれるような店作りを続けてきたのは、他の書店との競争があったからです。価格であれサービスであれ、魅力のない店舗は、他の店に顧客を奪われてしまって事業を続けることができなくなります。そうした危機感、言い換えれば、競争にさらされているプレッシャーが、ジョーや彼の会社に対して、より高度なサービス、より魅力的な店舗を生み出していくよう迫っていたわけです。そうした構図は、現代の経済では、大部分の企業と個人にあてはまります。競争のプレッシャーは、企業や個人の頑張りを引き出し、それが生産活動の効率化や、商品、サービスの質の向上を通じて、私たちの豊かさの向上をもたらします。

 この連載でも何度か書きましたが、経済というのは、人々がお互いに支えあって豊かさを実現していく枠組みのことです。それと同時に、経済のメカニズムのなかには、分業の高度化や機械設備の拡充、科学技術の進歩、新しい商品やサービスの開発といった積み重ねによって、豊かさを向上させていく仕組みも組み込まれています。そして、現代の世界で主流となっている資本主義の経済においては、競争こそが、私たちの豊かさを生み出し、社会と経済を進歩させていく原動力となっているのです。

 競争を前提にした社会では、勝者と敗者が生まれ、人々の間にさまざまな摩擦を生じさせることにもなります。また、競争のプレッシャーが強すぎると、人々に大きなストレスを与えたり、競争に勝つための不正が横行したりといった弊害も出てきます。とはいえ、現在の私たちは、豊かさと進歩の原動力として、競争に代わる仕組みを見出せてはいません。私たちはこれからも、競争の果実を極力大きなものとする一方で、その弊害をできる限り小さくしていく努力を続けていかなくてはならないでしょう。

 さて、映画という身近な題材を通して「経済」を考えるこの連載は今回でいったん終了となります。近いうちにまた別の形で皆さんにご覧いただける予定となっていますので、ご期待ください。次の展開は、詳細が決まり次第、このブログでお知らせいたしますので、たまに覗いてみていただければと思います。
 ひとまずは、ご愛読いただき、ありがとうございました。

【今回の映画】
プリティ・ウーマン(1990年、アメリカ)
原題:Pretty Woman
監督:ゲイリー・マーシャル
出演:ジュリア・ロバーツ、リチャード・ギア

ユー・ガット・メール(1998年、アメリカ)
原題:You’ve got mail
監督:ノーラ・エフロン
出演:トム・ハンクス、メグ・ライアン

お金の稼ぎ方−クレイマー、クレイマー、ブルース・プラザーズほか

 映画で描かれるお金儲けというと、アラン・ドロンの「太陽がいっぱい」やスティーヴ・マックイーンの「華麗なる賭け」、ポール・ニューマンとロバート・レッドフォードの「スティング」のような犯罪を主題にしたもの、あるいは、キャサリン・ターナーとマイケル・ダグラスの「ロマンシング・ストーン/秘法の谷」やリチャード・ドナー監督の「グーニーズ」、ニコラス・ケイジの「ナショナル・トレジャー」のような宝探しものなどもありますが、ここではあくまでも、経済の枠組みのなかでのお金の稼ぎ方を観ていきたいと思います。

 お金を稼ぐというと、昔であれば、自分で獲ったり作ったりしたものを、業者に売ったり自分で市場に売りに行ったりという形が一般的だったのでしょうが、現代では、企業や官庁に雇われて仕事をすることで給料や賃金を稼ぐスタイルが普通になっています。映画に出てくる例でいえば、工場で流れ作業の仕事に就いた「モダン・タイムス」のチャーリー(チャーリー・チャップリン)や、長らく失業していた末に市役所のポスター貼りの仕事を手に入れた「自転車泥棒」のアントニオ(ランベルト・マジョラーニ)のスタイルが基本形と言えるでしょう。

 ただ、チャーリーやアントニオの仕事は、あまり良い条件のものではありません。チャーリーは単調で余裕のない作業に追われて精神を病んでしまいますし、アントニオは自転車を持っていなければ雇わないという条件を付けられていました。それでも彼らは、暮らしていくために、そういう仕事にしがみつかざるを得ませんでした。チャーリーは、ストで閉鎖されていた工場が再開されると喜んで仕事を求めて走りました。アントニオは、仕事の条件である自転車が盗まれてしまうと、息子とともに犯人を捜してローマの町中を歩き回りました。

 彼らの仕事の条件が良くなかったのは、彼らが提供するのが単純な労働力とそれに費やす時間だけであり、なにかあったら簡単に代わりの人を見つけることができるような仕事だったためです。これが、高度な知識や技能、あるいは新しいアイディアや価値を生み出していく「創造力」が必要とされるような仕事となると、話はまったく違ってきます。

 例えば「クレイマー、クレイマー」の主人公、妻に去られて子育てと外での仕事の両立を迫られたテッド(ダスティン・ホフマン)のケース。彼の仕事は広告代理店で顧客企業の商品広告や企業広告のプランを策定することでした。その仕事には、豊富な知識と、キャッチコピーやデザインを作り出すセンスが求められます。その能力を顧客や雇い主に認められれば、給料も高くなりますし、オフィスの環境や仕事の時間、休日の自由度などの条件も良くなります。もちろん、失業する可能性は減りますし、新しい職場を探すのも容易になります。テッドも、慣れない家事と子育てに振り回されたせいで会社でミスを連発してクビになってしまいますが、新しい仕事はすぐに見つかりました。

 また、「ショーシャンクの空に」のアンディ(ティム・ロビンス)は、無実の罪で投獄された刑務所内で、金融と財務の専門知識を活かして、看守や刑務所長を相手にコンサルティングのサービスを提供しました。彼の場合、お金を稼ぐということではありませんが、暴力の支配する刑務所ではお金よりもはるかに大切な、身の安全を手に入れることができました。「ディーバ」のヒロイン、シンシア(ウィルヘルメニア・フェルナンデス)になると、その技能と創造力はさらに際立っています。なにしろ、世界各国でリサイタルを開くような一流の歌手です。映画では直接は描かれませんが、彼女の暮らしぶりからみる限り、稼ぐお金は相当なレベルになっていそうです。

 これらはいずれも、どのような技能や創造力を持っているか、そして、それを活かせる仕事に就けるかが、現代の経済においてお金を稼ぐための、きわめて大きなポイントであることのサンプルです。ただ、シンシアのような際立った才能の持ち主を別にすると、企業や役所に雇われて働いている限りは、稼げるお金には限界があります。そこで考えられる、お金を稼ぐための第二のポイントが、「リスクを取る」ということです。

 そのあたりを音楽コメディ映画「ブルース・ブラザース」でみてみましょう。刑務所から出てきたばかりのジェイク(ジョン・ベルーシ)と、彼を出迎えたエルウッド(ダン・エイクロイド)の二人が、育ててもらった孤児院を守るために、かつてのブルース・バンドを復活させて資金を稼ごうと奮闘する物語です。二人は首尾よく昔の仲間を集めてバンドを復活させますが、ギャラをもらって演奏しているだけでは満足なお金は稼げません。そこで、自分たちで会場を手配してライブを企画したのです。これは、うまく客が集まれば大金を稼げますが、失敗すればただ働きどころか、会場や資材の費用など、かえって損失が出てしまう可能性もある仕事です。

 これと同じようなケースは「フル・モンティ」にも出てきます。こちらでは、失業して息子の親権を失いそうになっているガズ(ロバート・カーライル)が、養育費を稼ぐために、仲間を集めて男性ストリップのショーを企画します。出演するのは、ガズ自身を含めて、特別な技能も創造力もない中年男ばかりです。彼らはショーに向けて日々練習に励みますが、客が集まらなければ、少なくともお金の面ではすっかり無駄になってしまいます。

 企業や官庁に雇われて働く場合には、条件にはいろいろな違いがありますが、普通は、仕事をしさえすれば、それが最終的にどのような成果を上げたとしても、契約していただけの賃金は手にできます。ですが、自分で何か儲かる事業を企画して実行していくのであれば、大きな収入を得る可能性がある一方で、損をするリスクも生じてきます。ジェイクとエルウッドもガズたちも、損をするリスクを取ることで大きな収入を狙っているわけです。まったく違う次元の話ではありますが、「太陽がいっぱい」や「華麗なる賭け」で描かれたような、犯罪で大金を稼ごうとする計画も、刑罰を受けるリスクを取ることで大きな利益を狙うという意味合いがあると言えるでしょう。

 お金を稼ぐための第三のポイントは、自分自身で仕事をするだけでなく、自分が持っているさまざまな財産に仕事をさせることにあります。「バットマン・ビギンズ」では、大富豪の御曹司ブルース・ウェイン(クリスチャン・ベイル)がどのような事情で悪と闘うバットマンになっていったかが描かれますが、彼が悪と闘うための費用は、彼が両親から株式を相続した企業からの配当によって賄われていることが示されます。手持ちの財産が働いてくれているおかげで、ブルース自身は正義の味方の仕事に専念できるわけです。

 また、「ジャイアンツ」では、テキサスの大牧場に嫁いできた主人公レズリー(エリザベス・テーラー)に思いを寄せる牧童ジェット(ジェームズ・ディーン)が、牧場の女主人から遺産として譲られた土地から湧き出した石油を元手にして、石油産業を中核とする巨大な企業グループを築き上げます。これもまた、油田という財産を働かせたからこそ可能になったことです。

 もちろん、お金を稼ぐのに使えるのは、ブルースやジェットのような巨大な財産とは限りません。稼いだなかからコツコツ貯めたお金を銀行に預金したり株を買ったりして、そこから利子や配当を得るというのは、誰にでも可能な稼ぎ方です。また、自分の創造力の成果を、お金を稼いでくれる財産に仕立て上げるスタイルもあります。「ディーバ」のシンシアは頑なに拒んでいましたが、自分の歌を録音してCDを売り出せば、それが売れれば売れるだけ、お金が入ってくるようになります。これは、本を書いたり、新しい商品を作り出したりといった仕事にもあてはまります。売れさえすれば、という条件付ではありますが、きわめて効率的な稼ぎ方です。

 ここで見てきた、技能や創造力を活かす、リスクを取る、財産を働かせる、という三つのポイントすべてを含んでいるのが、「タッカー」のプリンストン・タッカー(ジェフ・ブリッジス)や「エデンの東」の主人公の父親アダム(レイモンド・マッセイ)が挑戦した、新しい事業を立ち上げる仕事です。事業の立ち上げのためには、斬新な商品やサービス、あるいは事業モデルを考え出す創造力が必要なのはもちろんですが、事業が失敗するリスクを取ることになりますし、多くの場合には手持ちの財産を注ぎ込むことにもなります。そして、事業が軌道に乗って企業として成立すれば、創業者にとっては、それ自体がお金を稼いでくれる財産にもなってきます。

 ここまでは、私たち一人一人、個人の視点からお金の稼ぎ方を考えてきましたが、技能・創造力、リスク、財産活用の三つがカギになるということは、企業の経営にもあてはまります。いかに技能と創造力の優れた人材を確保するか、どのようなリスクを取りどのようなリスクを避けるのか、保有している資産をいかに有効に活用するかといったポイントは、まさに企業の収益を左右する最重要課題と言えるでしょう。

 さらに付け加えれば、この連載で題材にしている映画についても、お金を稼ぐ事業としてみれば、やはり、同じ三つのポイントが重要です。映画を撮るには、監督や俳優をはじめ、高度な技能と創造力を持った多くの人々の力が必要ですし、プロデューサーには興行が失敗するリスクを取ることが求められます。また完成した映画は、フィルムやDVDの原データなどの形でお金を稼ぎ出す財産となり、それをどう活用するかで、その映画の収益性は大きく変わってきます。もちろん、収益性がどうなろうと、その映画自体のクオリティが変わるわけではありません。ですが、映画が事業として成立するからこそ、私たちは新しい映画を次々と楽しむことができるというのも確かです。お金を稼ぐという発想は、私たちの経済のさまざまな場面で重要なカギとなっているのです。

 1月下旬にアップ予定の次回は、私たちの「豊かさ」について、映画を通じて考えてみたいと思います。

【今回の映画】
クレイマー、クレイマー(1979年、アメリカ)
原題:Kramer vs. Kramer
監督:ロバート・ベントン
出演:ダスティン・ホフマン、メリル・ストリープ、ジャスティン・ヘンリー

ブルース・ブラザース(1980年、アメリカ)
原題:The Blues Brothers
監督:ジョン・ランディス
出演:ジョン・ベルーシ、ダン・エイクロイド、レイ・チャールズ

バットマン・ビギンズ(2005年、アメリカ)
原題:Batman Begins
監督:クリストファー・ノーラン
出演:クリスチャン・ベイル、リーアム・ニーソン、マイケル・ケイン、渡辺謙

「政府」の描かれ方-ポストマン、未来世紀ブラジル、他-

 政府というと、もちろん私たちの暮らしにはなくてはならない存在なわけですが、その一方で、税金を取られるとか、いろいろと面倒な規則を押し付けてくるといった、ありがたくない側面も持っています。映画では、それらいずれもが、題材として取り上げられています。

 まずは、政府という存在の大切さですが、それは逆に、政府が存在しない世界を描いた映画を観れば、はっきりしてくるでしょう。たとえば、ケビン・コスナー監督・主演の「ポストマン」。舞台は近未来のアメリカです。大規模な核戦争のせいで、都市は消滅し、気候にも狂いが生じています。政府は崩壊し、暴力による支配と略奪が横行するなか、人々は小規模な集落を形成して、暴力から身を守っています。

 ケビン・コスナーが演じる主人公は、そんな世界を独りでさすらっている名もない流れ者です。彼は、休息と食料を求めてある集落に入り込むために、政府が復活したという嘘をつきます。彼自身は、復活した政府によって再開された郵便事業に従事する配達人、ポストマンだと名乗るのです。彼の言葉を信じた集落の人々は、政府の復活を喜び、神に祈りを捧げます。これで秩序と安全が回復されると期待したのです。

 彼らの集落は、皆のために誰もが力を出し合って働く共同体、コミュニティの形になっています。そこでの最大のテーマは、自分たちの身の安全を守ることであり、そのためにお互いに協力しあって厳重な柵を築いたり武装したりしているわけです。ですが、その備えは必ずしも十分ではなく、集落を襲って略奪を繰り返す、人種主義者ベスリヘム(ウィル・パットン)が率いる強力な武装集団には対抗できない状況でした。

 集落の人々が期待した「政府」とは、彼らのようなコミュニティの委託を受けて、人々の安全の確保をはじめ、コミュニティ全体としてのニーズを満たすために働く機関のことです。映画「七人の侍」では、貧しい農民がなけなしの米を出し合って、それで侍たちを雇って、野武士たちの略奪から村を守ってもらおうとしますが、そのスタイルに、政府という存在の、一つの原型を見ることができそうです。それは、国民とか市民といったコミュニティの成員に奉仕する機関としての政府です。

 ですが政府には、それとはまったく違ったイメージもあります。「ポストマン」では、武装集団のリーダーのベスリヘムも、自身を首班とする新たな政府の樹立を狙っています。その意味では、ただ略奪を繰り返しているだけの「七人の侍」の野武士集団とは、かなり違った性格の敵役です。ベスリヘムが想定している政府とは、人々の上に立ち、人々を支配する存在です。いわば、統治機関としての政府といえるでしょう。

 これら二つの政府像は、奉仕機関としての政府は民主主義体制の、統治機関としての政府は独裁体制の政府ということもできるでしょう。この二つのタイプの政府は、出発点においてはまったく対照的な存在です。映画でも、「スターウォーズ」のシリーズが典型ですが、正義の民主政府と悪の独裁政府という位置付けでそれらの対立を描いた作品は少なくありません。ですが、その政府が成立して年月が経つと、その違いは次第にあいまいになっていく傾向があります。

 独裁者によって樹立された政府でも、武力による強制だけでいつまでも政権を維持することは、ほとんど不可能です。支配された人々がいつかは反乱や革命を起こすというのもありますが、それ以上に、人々が政府に対して不満や反感を抱えていたのでは、一致団結した他の集団との抗争になった場合に、きわめて不利な状況が生じてしまうからです。

 集団と集団との競争に勝ち抜いて、政権としても生き残っていくためには、そこに所属する人々の不満を解消し、集団と政府に対する感謝や忠誠心を人々の心に植え付けていくことが必要になります。そして、人々の不満を解消するには、集団全体の動きを決める際に人々の、人々の意見を聞く仕組みを取り入れることも有力な選択肢となってきます。そこまでくると、民主政府にかなり近づいた体制といえるでしょう。現実の歴史を振り返ってみても、日本をはじめとして、独裁政府が近代化の流れのなかで、民主政府に衣替えしてきた例は少なくありません。

 一方、民主政府の方も、時間の経過とともに、独裁政府の性格を帯びていく傾向があります。それは、コミュニティと政府自体の規模の拡大と、政府の仕事の専門職化にともなう動きです。「ポストマン」では、流れ者の嘘をきっかけに、それを信じた少年少女たちが、周辺の集落を結ぶ郵便網を本当に作り上げてしまいます。それが複数のコミュニティを結び付けたことが新政府の樹立につながっていくわけです。外部の脅威に打ち勝てるだけの力を持つには、コミュニティにも政府にも相応な規模が求められるのです。

 これは、外敵から人々の安全を守る仕事だけではありません。生活や産業の基本となる道路や港、通信網などのインフラの整備や、医療、教育などの公共サービスについても、より大きな枠組みのなかで、専門的な知識・技術の持ち主に任せていくことが効率的だと考えられます。コミュニティ同士が連携、連帯して、より大きな枠組みの政府を志向していくのは、必然的な流れといえるでしょう。

 ですが、政府の組織が肥大化し、政府の仕事が細かく分かれてそれぞれに専門化されていくと、次第に弊害も大きくなってきます。そうした状況をきわめて印象的に描き出した映画が、テリー・ギリアム監督の「未来世紀ブラジル」です。この作品に登場する政府は、極端に肥大化した結果、民主主義体制の政府でありながら、政府とは国民、市民に奉仕する存在であるという本質が完全に見失われてしまっています。テロを防ぐという目的のためではありますが、人権を無視した強引な方法で市民を逮捕・拘留し、拷問を使った取調べまで認められています。

 この映画の世界は、テリー・ギリアム監督の独特の映像によって、現実離れしたイメージで描かれていますが、政府の肥大化にともなう現象は、現実の世界においても、相当なリアリティのある話です。政府の内部に勢力争いが生まれたり、奉仕すべき相手である個々の国民、市民をないがしろにしたりといった現象です。これは、民主政府でありながら、独裁政府の性格を帯びていくということでもあります。

 とくに、この映画に登場する情報省情報剥奪局のように、政府内での機能や権限が一部に集中してしまうと、悪くすれば、自分たちが一般の市民を指導しているのだというエリート意識が高まり、市民を自分たちの考えどおりにコントロールしようとする動きも出てきかねません。そういう場合に怖いのは、「国のため」とか「みんなのため」といった、必ずしも否定できない、というか、それ自体はきわめて好ましいスローガンが使われがちだという点です。

 そうした動きは、映画の世界とも密接な関係を持っています。というのは、国のため、社会のために犠牲になる行為を美化した映画が、数多く存在しているからです。「ポストマン」でも、流れ者の嘘を信じて郵便配達員となった若者たちは、新しい政府のためになら死んでも構わないという決意で、武装集団が横行するなかで仕事を続け、命を落としていきました。「七人の侍」では、全体のために個人が犠牲になることもあり得るという考え方に立って、侍と村人たちが力をあわせて野武士に立ち向かっていきます。また、それらとは逆に、西部劇の名作、ゲーリー・クーパー主演の「真昼の決闘」では、町の平和を脅かすならず者たちとの闘いを保安官一人に任せて傍観していた町の人々が、批判的に描かれています。こうした愛国心と自己犠牲の精神を讃えるメッセージを含んだ映画は、映画として感動的であればあるほど、それを政府に利用されることを懸念する人々から批判を浴びるのが常でした。

 優れた映画は、世の中の人々の価値観や考え方に影響を与えるものです。その一方で、その時々の社会の雰囲気が、映画のスタンスを左右することも間違いありません。映画は時代とともにあるのです。映画を観るうえでは、そんなことも考えておくと、ただ観るのとは違った興味が得られるのではないでしょうか。

 12月下旬にアップ予定の次回は、「お金の儲け方」について、映画を通じて考えてみたいと思います。

【今回の映画】
ポストマン(1997年、アメリカ)
原題:The Postman
監督:ケビン・コスナー
出演:ケビン・コスナー、ウィル・パットン、ラレンズ・テイト、オリビア・ウィリアムズ

未来世紀ブラジル(1985年、米・英)
原題:BRAZIL
監督:テリー・ギリアム
出演:ジョナサン・プライス、キム・グライスト、ロバート・デ・ニーロ

「企業」の役回り-麗しのサブリナ他-

 私たちにとって「企業」といえば、働く場であったり、日々の暮らしで食べるものや着るもの、使うものを供給してくれる存在であったり、人によっては財産を増やしてくれる投資先だったりと、多彩な顔を持っています。そのため映画にも、企業はいろいろな形で登場してきました。そして、その描かれ方や役回りは、時代とともに変わってきています。ここでは、その流れを追ってみましょう。

 企業を描いた映画の先駆というと、やはりチャップリンの「モダン・タイムス」が挙げられるでしょう。1936年の映画です。この作品では、当時の労働者の厳しい境遇や、科学技術の進歩とそれに支えられた経済の急速な発展の様子が鮮明に映し出されています。そこでの企業は、主人公チャーリー(チャールズ・チャップリン)をはじめとする労働者たちに苛酷な労働を強いる「憎むべき存在」として描かれています。そうした描かれ方は、ある程度は当時の現実を反映したものだったと考えられます。また、生産と消費の両面で人々の生活のなかでの存在感を急速に高めつつあった、企業という存在に対する不安感や不信感を映し出してもいるでしょう。

 その後、労働者が企業に踏みつけにされるような状況は、労働運動の効果や社会制度が整備されたことで次第に改善されていきました。また、企業という存在が社会に浸透していくにつれて、企業に対する人々の不信感も薄らいでいきました。その流れも、映画から読み取ることができます。例えば、ビリー・ワイルダー監督、オードリー・ヘップバーン主演の「麗しのサブリナ」。「モダン・タイムス」から約20年後、1954年に製作された、ハリウッド映画の古典的な名作です。

 この映画では、ハンフリー・ボガートが演じた巨大企業グループのオーナー経営者ライナスは、冷徹な一面もあるものの、さまざまな悩みを抱えた人間的で愛すべき人物として描かれています。彼は、お抱え運転手の娘サブリナ(オードリー・ヘップバーン)の明るく清新な魅力に接して、迷ったあげくに経営者としての仕事を放り出して、彼女とともにパリへと旅立っていきます。ビジネスの方でも、サトウキビを原料にした土に還るプラスチックの事業化など、社会的に意義の大きい仕事を手掛けていることが描かれています。

 この映画が撮られた1950年代の米国では、企業の発展が社会に豊かさをもたらす仕組みが人々に認識されてきたことで、大企業やその経営者も、一概に労働者の「敵」というのではなく、より身近な、人々に受け入れられた存在になっていました。企業や企業経営者を好意的に描く映画が作られるようになったのは、そうした時代背景によるものと言えそうです。

 この頃には、企業で働く人々を描いた映画も数多く作られました。例えば1960年の「アパートの鍵貸します」。これもまたビリー・ワイルダー監督の作品です。主人公のバクスター(ジャック・レモン)は、生命保険会社に勤める会社員です。とくに仕事ができる社員ではなさそうですが、職場の上役たちに頼られる存在です。というのは、彼は、自分の住んでいる部屋を上役たちにデートの場として提供していたからです。といっても彼の場合、要領の良い世渡り上手という感じではありません。かえって身勝手な上役たちに振り回されて、一晩中部屋に帰れなかったり、隣人や大家にあらぬ誤解を受けたりと、迷惑なことの方が多そうです。そして、想いを寄せていたエレベーター・ガールのフラン(シャーリー・マクレーン)が、部屋を貸した人事部長シェルドレイク(フレッド・マクマレイ)の浮気相手であったことに気付かされるという辛い経験までさせられてしまいます。もっとも、それがきっかけでシェルドレイクに振られたフランとの切ないけれども素敵なラブストーリーがはじまるわけではありますが。

 バクスターは大企業の下っ端の平社員ですが、仕事はずいぶんと楽そうに見えます。というか、彼にしても彼に部屋を借りている上役たちにしても、まともに仕事をしているようには見えません。何をやっているのかよく分からないというのは、「モダン・タイムス」のチャーリーと同じですが、仕事の辛さと楽さという意味では、まったくの正反対と言えるでしょう。「モダン・タイムス」では、精神を病んでしまったチャーリーに象徴されるように、これでは労働者はおかしくなってしまうだろうと思われたわけですが、「アパートの鍵貸します」の方は、社員や役員たちのあまりにお気楽な仕事振りに、むしろ企業の方がおかしくなってしまいそうに思えてきます。

 これはもちろん、映画ならではの演出ではあるのでしょうが、この作品が撮られた時代、1960年代から80年代にかけてのアメリカの大企業の現実を映し出してもいます。この頃、アメリカの大企業の多くは、市場での地位が安定し、企業間の競争にもある程度の決着が着いたことで、商品やサービスの質を高めようとか、効率化を進めようという前向きな姿勢を失っていました。

 そのあたりを痛烈に描き出した映画に、1988年の「タッカー」があります。物語の舞台は第二次世界大戦直後のアメリカですが、問題意識は明らかに1980年代のものです。この作品では、主人公プレストン・トーマス・タッカー(ジェフ・ブリッジス)が理想の車を作るという夢を実現させようと、新たに企業を立ち上げます。それに対して既存の大手自動車メーカーは、自分たちの事業を守るために、より優れた車を作るとか、事業を効率化させて製品の価格を下げるといった前向きなやり方ではなく、タッカーの会社に対して、政治家やマスメディアを使ってさまざまな妨害工作を仕掛けていきます。そんな企業ばかりになってしまうと、アメリカの社会は活力をなくして衰えていってしまう。これは、当時のアメリカで多くの人が感じていたことです。

 ですが、「タッカー」が撮られた1980年代の末頃には、すでにそうした状況に転機が訪れようとしていました。そのきっかけとなったのが、映画「ウォール街」や「プリティ・ウーマン」、「アザー・ピープルズ・マネー」で描かれた“乗っ取り屋”の台頭でした。1987年製作の「ウォール街」では、主人公ゲッコー(マイケル・ダグラス)は金儲けのためには手段を選ばない悪党として強烈な印象を残しました。そんな彼が、乗っ取りを仕掛けた企業の株主総会の場で、経営者たちの怠慢を責める質問を浴びせるシーンがあります。経営者たちはゲッコーに反論もできずに無能振りをさらけ出してしまいます。この映画は、“乗っ取り屋”は悪だけれども、狙われる企業の側にも大いに問題があるという見方に立って作られています。

 それに対して、1990年の「プリティ・ウーマン」は、“乗っ取り屋”の仕事は悪であると断じられる一方、狙われる企業は、善良な被害者という描き方です。また、1991年の「アザー・ピープルズ・マネー」は“乗っ取り屋”にも企業にも理があるというスタンスです。ほぼ同じ時期に同じテーマを扱った映画ではありますが、企業に対する見方は、それぞれに異なっているわけです。いずれにしても、“乗っ取り屋”の台頭はアメリカの株式市場を活性化させ、年金や投資信託などの機関投資家が常に企業経営を監視し、満足がいかない場合には経営者を交代させるような仕組みが成立しました。それによって、アメリカの企業は再び緊張感と活力を取り戻したのです。ですがこれは、企業で働く人々にとっては、「アパートの鍵貸します」的な状況から「モダン・タイムス」的な状況に近付く、厳しい時代の幕開けでもありました。

 こうして時代を追ってみてくると、企業にはさまざまな役回りがあり、それが多彩な企業観を生んでいることが読み取れるのではないでしょうか。ここでは、取り上げた映画との関係上、アメリカにおける企業と企業観の変遷を追う形になりましたが、大きな流れとしては、ヨーロッパや日本、あるいはその他の地域の企業についても、ほぼ同じことが言えます。また、企業のどの役回りにスポットをあてるかは、時代によって、また企業を見る視点によって変わってきますが、そのいずれもが企業という存在の一つの側面であり、一面の真実を含んでいます。

 ここで取り上げた映画でも描かれているように、企業は、労働者を酷使する「敵」となる場合もあれば、労働者と利害を共にする「味方」となる場合もあります。また、売り買いの対象となる「モノ」としての側面と、あたかも固有の意志を持っているかのような「ヒト」としての側面を併せ持ってもいます。さらには、投資家にとってはお金を生み出す「装置」である一方で、労働者にとっては働く「場」と位置付けられます。このように実にさまざまな側面を持つ複雑な多面性も、企業という存在の本質の一つと言えるでしょう。

 11月下旬にアップ予定の次回は、企業と同様に多彩な顔を持つ「政府」という存在について、映画を通じて考えてみたいと思います。

【今回の映画】
モダン・タイムス(1936年、アメリカ)
原題:Modern Times
監督:チャーリー・チャップリン
出演:チャーリー・チャップリン、ポーレット・ゴダード

麗しのサブリナ(1954年、アメリカ)
原題:Sabrina
監督:ビリー・ワイルダー
出演:オードリー・ヘップバーン、ハンフリー・ボガート、ウィリアム・ホールデン

アパートの鍵貸します(1960年、アメリカ)
原題:The Apartment
監督:ビリー・ワイルダー
出演:ジャック・レモン、シャーリー・マクレーン、フレッド・マクマレイ

タッカー(1988年、アメリカ)
原題:Tucker
監督:フランシス・フォード・コッポラ
出演:ジェフ・ブリッジス、ジョーン・アレン、マーティン・ランドゥ、ロイド・ブリッジス

ウォール街(1987年、アメリカ)
原題:Wall Street
監督:オリバー・ストーン
出演:マイケル・ダグラス、チャーリー・シーン、マーチン・シーン

プリティ・ウーマン(1990年、アメリカ)
原題:Pretty Woman
監督:ゲイリー・マーシャル
出演:ジュリア・ロバーツ、リチャード・ギア

アザー・ピープルズ・マネー(1991年、アメリカ)
原題:Other People’s Money
監督:ノーマン・ジュイソン
出演:ダニー・デヴィート、グレゴリー・ペック、ペネロープ・アン・ミラー

「いちば」の情景-ローマの休日、太陽がいっぱい、他-

 しばらくお休みをいただいておりましたが、今月から、第二部といいますか、ちょっと趣向を変えて連載を再開いたします。これまでは、毎回一本の映画を題材にして書いてきましたが、今回からは何本かの映画を比較したり対照したりする形で、経済のあれこれについて考えていきたいと思います。今回は、映画に登場する「いちば」の情景をみていきましょう。

 「ローマの休日」に、オードリー・ヘプバーンのアン王女がローマのいちばを一人で散策するシーンがあります。魚屋で活きたウナギに触ってびっくりしたり、果物を勧められたりといった、1分少々のごく短いシーンです。この映画は、ローマの観光案内の趣もあって、トレヴィの泉、真実の口、祈りの壁など、ローマの観光名所が次々に登場します。そんななかで、このいちばのシーンは、とくに「ローマの…」ということではなく、高貴な王女さまが庶民の暮らしに触れる、という描かれ方になっています。

 同じようなシーンが、アラン・ドロンの「太陽がいっぱい」にもあります。彼はこの作品で、富豪の友人を殺して、その財産を乗っ取ろうとする犯罪者トム・リプレイの役を演じています。トムは友人を手に掛け、これから知謀を尽くして財産を乗っ取りにかかろうという矢先、束の間、町のいちばを散策します。殺人の罪を犯し、過去の日常にはもう戻れないトムが、いちばの人々の温もりのなかを歩いていく。何でもないシーンなのですが、ニーノ・ロータの音楽が重なり、不思議と印象に残るシーンです。

 可憐な王女と冷徹な殺人者。まったく対照的ですが、どちらも私たちの日常とはかけ離れた存在です。そのことが、いちばという日常生活そのものの情景をバックにすることで、一段と際立ってくるわけです。もちろん、私たちが観るときには、王女や殺人者というだけではなく、大スターのオードリー・ヘプバーン、アラン・ドロンが、いちばを歩いているという感覚を同時に持ってしまいます。その意味でも、日常と非日常の対照という構図が活きてくるわけです。「ローマの休日」でも「太陽がいっぱい」でも、いちばの場面は1分あまりの短いシーンに過ぎませんが、この作品でアカデミー主演女優賞を穫ることになるオードリー・ヘプバーン、そして、世界の女性の憧れの的であったアラン・ドロンの自然な素顔が覗く、実に印象的なシーンになっています。

 その他にも、いちばが私たちの日常の象徴として登場する映画は少なくありません。同じオードリー・ヘプバーン主演作でも、「ローマの休日」とはまったく逆のパターンの「マイ・フェア・レディ」では、ロンドンの花売り娘が、正しい発音とマナーを身に付けて上流社会にデビューしていくストーリーのなかで、舞踏会や競馬場が上流社会を象徴する一方、いちばは、庶民の暮らしの象徴となっています。

 今、私たちのほとんどは、日常の買い物には、近所の商店街やスーパー、コンビニを使っていて、いちばを使う人はあまり多くはないと思います。それでも、いちばの情景には、何か生活のにおいといったものを感じ取ることができるのではないでしょうか。ここで取り上げた映画でも、いちばは、普通の人々がお互いに支えあって暮らしていることを象徴する存在として描かれています。

 いちばでは、人々がそれぞれに作ったもの、穫ったものを持ち寄って、お互いに売買し、それぞれが生活に必要なものを手に入れて帰っていきます。その様子は、経済の縮図です。みんなで仕事を分担することで、仕事の効率を上げる。仕事の成果を持ち寄って、みんなで交換しあう。こうした「分業」の枠組みこそが経済の本質なのです。より簡潔に表現すると、「経済」とは「人々が暮らしていくうえで、お互いに支えあう枠組み」のことだといえるでしょう。

 ですが、現代に生きる私たちの多くは、経済活動において、「お互いに支えあう」という実感を持ちにくくなってきています。「エデンの東」や「モダン・タイムス」で描かれているように、分業の枠組みが複雑化し、人々の仕事が極端に細分化されてしまっているためです。「モダン・タイムス」で描かれたような、工場での流れ作業による大規模な生産様式は、20世紀の人々の物質的な豊かさの基盤となりましたが、その半面、仕事は細切れになり、何かを作っているという実感は希薄になっていきました。現在では、工場での労働の多くが機械に置き換わることで、全体として肉体的な負担は軽減されましたが、高度化した生産工程を管理する仕事、いわゆるオフィスワークのウエイトが高まったことで、生産の実感、仕事の実感はますます薄らいでいきました。その結果、生産者と消費者の関係は、「お互いに支えあう」という意識は薄れ、お金を媒介にした単なる取引関係に過ぎなくなってきています。

 現代の経済は、「人々が互いに支えあう枠組み」という原点を離れ、「お互いに競い合ってお金を稼ぐ場」と化しています。そうした状況の下では、いかに生産力が余っていても、お金のない人の需要が満たされることはありません。先進国では過剰な生産力をもてあまし失業が問題となっていますが、分業の枠組みがお金を媒介にした取引関係をベースに構築されているため、余った生産力を、貧しい人々や飢えに苦しむ国の人々のために活用することは難しいのです。

 しかし、そうした現状に抵抗する動きも生じてきています。先進国の若い人々を中心に、細分化された労働に嫌気がさし、そうではない別の働き方を求めはじめる人々が増えてきているのです。リスクを覚悟のうえで新しい企業を立ち上げる人も増えていますし、真剣にだれかの役に立ちたいという思いから、給料が安くても、あえてNPO(非営利組織)やNGO(非政府組織)に職を求める動きも目立ってきています。こうした動きは、複雑化した経済が、いちばに象徴される原点に回帰するトレンドととらえることもできるでしょう。これは、私たちの経済が、物質的な豊かさだけを追求する時代を抜けて、新しい時代を迎えようとしている証なのではないでしょうか。

 10月25日にアップ予定の次回は、映画に登場する「企業」の描かれ方をみていきたいと思います。

【今回の映画】
ローマの休日(1953年、米) 
監督:ウィリアム・ワイラー 
出演:オードリー・ヘップバーン、グレゴリー・ペック

太陽がいっぱい(1960年、仏・伊) 
監督:ルネ・クレマン 
出演:アラン・ドロン、モーリス・ロネ

マイ・フェア・レディ(1964年、米) 
監督:ジョージ・キューカー 
出演:オードリー・ヘップバーン、レックス・ハリスン

エデンの東-まっとうでない仕事-

Eden


 原作は文豪ジョン・スタインベック、監督は巨匠エリア・カザン。といっても、数少ないジェームズ・ディーンの出演作という印象の方がはるかに強いのではないでしょうか。舞台は20世紀初頭のアメリカの田舎町。聖書の挿話を下敷きにした、厳格な父親とちょっとスネた、ナイーブな息子の物語です。

 裕福な農場主、アダム・トラスク(レイモンド・マッセイ)は、信仰に裏打ちされた善良な生き方を貫いてきました。彼の二人の息子のうち、兄のアロン(リチャード・ダバロス)は、父と同様に自信を持って善良な人生を歩もうとしており、父からも信頼されています。ところが、弟のキャル(ジェームズ・ディーン)は、自身の内面に潜む「悪い」何かから目を逸らすことができずに、屈折したような行動に走ってしまいます。「悪い」といっても、それは、誰もが持っている程度の悪さ、弱さであって、彼が特別に悪い人間だというわけではありません。むしろ、兄にはないナイーブさが、そうさせていたのかもしれません。そのせいでキャルは、内心では父親に認められたい、愛されたいという思いをとても強く持っているにもかかわらず、父親とうまく心を通わせることができずにいたのです。

 そんなアダムとキャルの気持ちの行き違いのなかからは、現代の経済を考えるヒントも見つかります。それは、まっとうな仕事とは、また、まっとうな経済とはどういうものかという、本質的な問いにかかわるものです。

 アダムは、鉄道を使って遠方の大都市に住む人々に冷凍した野菜を届けるという新しい事業に挑戦します。これは、産業の分類でいえば、商業とか流通業ということになりますが、「商人」というのは、必ずしも人々のウケの良い存在ではありません。何を生み出すのでもなく、ただ商品を右から左へ動かすだけで商品を作る人たちの上前をはねている。そんなふうに理解されてしまっているからでしょう。「まっとうな仕事ではない」という評価です。ですがこの映画では、アダムの挑戦は「まっとう」どころか、たいへんに有意義な仕事として描かれています。アダムの事業が成功すれば、野菜を作る農家にしてみれば、作物の売り先が増えて収入は安定しますし、事業の拡大も狙えるようになります。都会の消費者にとっては、近くで野菜が採れない季節にも新鮮な野菜が食べられるようになります。生産者と消費者、両方にとって非常にハッピーな計画なわけです。

 流通の仕事は、人々の分業の枠組みとしての経済が発展していくうえでは、なくてはならないものです。経済の枠組みが大きくなると、生産者と消費者が直接向かい合うスタイルではもたなくなり、「生産者と消費者の間の橋渡し役」が必要になります。むしろ、流通の仕事を受け持つ人がいるからこそ、より広い地域、より多くの人々に、分業の輪を広げていけると言った方が正確でしょう。アダムの事業は、農村と都市の橋渡しとなって、分業の枠組みを広げることにもなるわけですが、このように、誰かの役に立つことがはっきりしている仕事であれば、流通の仕事も、十分まっとうな仕事として、誰もに認めてもらえるということでしょう。

 アダムの挑戦は、最初に送り出した列車が雪崩のせいで立ち往生してしまって、残念ながら失敗に終わります。そこで登場するのが、もう一つの「仕事」です。キャルは、事業に失敗して失意に沈んでいる父親を喜ばせようとして、大豆の先物取引で稼ごうとします。アメリカが第一次世界大戦に参戦すれば大豆の値段が高くなるだろうという見込みを立てて、大豆が収穫される前に農家と契約して、安い値段で大豆を買い付けたのです。これが図にあたって、彼は大金を手にします。そのお金を贈って父を助け、彼に認められようとするのですが、キャルの成功は、かえって責められてしまいます。戦争で儲けたという不道徳さに加え、キャルの稼いだお金は、大豆の生産者である農民が手にするべき利益を横取りしたものだというのです

 「何も法律にそむいたわけじゃない。ちゃんとしたビジネスだ。ビジネスでお金を稼いで何がいけないのか。」これがキャルの言い分です。実際、その通りです。キャルがやったのは先物取引、現代でいえばデリバティブ(金融派生商品)の一種、金融ビジネスの一種と言えるでしょう。農産物を対象としたデリバティブの歴史は古く、ギリシャやローマの時代にまでさかのぼれるのだそうですが、その本質は、「リスクの移転」にあります。キャルのやった取引で言えば、大豆が収穫される前に売買の契約をすることで、農民たちは大豆が値下がりすることを心配しなくてよくなります。生産規模の小さな農民にとってはありがたいことです。これは、キャルが価格変動のリスクを引き受けてくれたからこそで、彼の行為はちゃんと人々の役に立っているのです。こうした取引は、現在では農産物に限らず、石油や金属などのさまざまな商品、あるいは金利や為替レートなどを対象に、世界中で大々的に行われており、流通の仕事と同様、経済がより大きな枠組みになっていくうえで欠かせないものとなっています。

 にも関わらず、この種の仕事には「うさんくさい」とか「まっとうでない」というイメージがつきまといます。この映画でも、キャルの金儲けは「まっとうでない」仕事として描かれています。仕組みが複雑すぎて、どうやって人の役に立っているのかが見えにくいためもあるのでしょうが、何しろ、「モノを右から左へ動かす」ことさえしない。ただ、その商品の値段が上がるか下がるかを予想するだけです。当たれば大儲け、はずれれば大損。ギャンブルのイメージとも重なります。それに、こうした仕事の方が、モノを作る仕事よりはるかに儲かるという現実も、悪いイメージにつながっているのかもしれません。

 まっとうか、そうでないかの判断は、時代や文化によって変わってきます。もちろん、「世の中の役に立っているんだから文句はないだろう」と開き直ることもできるでしょう。ですが見方を変えると、分業が進んで複雑化した現代の経済は、「まっとうでない仕事」なしでは機能しないのだとも考えられます。そうであれば、私たちの経済そのものが、まっとうではないということにもなりかねません。まあ、そこまで言ってしまうのは言い過ぎでしょうが、世の中のためになるからとか、経済的に合理的だからというだけで、すっかり肯定されるわけではないということは確かでしょう。

 こうした見方は、もしかすると、自身の内面の「悪」に敏感なキャルの感性と重なるのかもしれません。映画では、アロンの恋人アブラ(ジュリー・ハリス)も、頑なに善良な生き方を求めるアロンより、悪さや弱さまで含めたすべてを理解しようとするキャルのナイーブさに惹かれていきます。そして、病に倒れたアダムも、アブラの仲立ちもあって、最後にはキャルを許し、受け入れます。

 決して完璧ではないのは、人も経済も同じです。それを認識し、受け入れることが、より良い未来へ向かう第一歩となることも多いのではないでしょうか。

【今回の映画】
エデンの東(1954年、アメリカ)
監督:エリア・カザン
原作:ジョン・スタインベック
出演:ジェームズ・ディーン、レイモンド・マッセイ、リチャード・ダバロス、ジュリー・ハリス

大逆転-価格メカニズムと市場の役割-

Daigyaku
 人の能力を決めるのは、生まれついて才能か、それとも育ってきた環境か。それを確かめようという「実験」が物語の発端でした。思いついたのは大金持ちで商品取引会社のオーナーであるランドルフ(ラルフ・ベラミー)とモーティマー(ドン・アメチー)のデューク兄弟。その実験というのは、デューク兄弟の会社の幹部社員ルイ(ダン・エイクロイド)と、街角でチンケな詐欺をはたらくビリー(エディ・マーフィ)の立場を入れ替えて、二人がどうなっていくかを見てみようという、とんでもないものでした。

 デューク兄弟の策略で家や財産、仕事、恋人までも奪われたルイは、ヤケになって勤めていた会社に乗り込んでいって、かつての部下や同僚に醜態をさらします。一方、ルイが就いていた仕事を与えられたビリーは、商品取引の仕事のコツをすぐに飲み込んで大活躍、市場でも一目置かれる存在になっていきます。ですが、事情を知ってしまったビリーは、ルイと手を組んで、デューク兄弟に一泡吹かせようと、策を練りはじめます。ちょうどその頃、デューク兄弟は、政府が発表するオレンジの作況情報を事前に手に入れて、オレンジ取引で大儲けしようと企んでいました。それを知ったルイとビリーは、デューク兄弟にウソの情報をつかませて大損させてやろうと考えます。

 クライマックスの舞台は、ニューヨークの商品市場。ルイとビリーに「不作」というウソの情報をつかまされたデューク兄弟は、オレンジを買いまくります。それを見た他の市場参加者も、彼らが何かの情報をつかんでいることを察知して、便乗の買いに出ます。市場は買い一辺倒の熱気に包まれ、オレンジの価格は急上昇。売っているのはルイとビリーの二人だけ。そこへ「平年並の作況」という政府発表が流れ、相場は一気に反転。全財産をオレンジに注ぎ込んでいたデューク兄弟は破産し、ルイとビリーは大金を手にします。タイトル通りの「大逆転」です。

 絶え間なく巨額の資金が動いている商品市場では、デューク兄弟のようにすべてを失ってしまう人もいれば、ルイやビリーのように大金を稼ぐ人もいます。そこでは、勝者と敗者は厳しく峻別され、多くの人の運命が揺れ動いています。それだけを見ていると、市場での取引というのは、競馬やパチンコのようなギャンブルみたいなものに思えるかもしれません。映画のなかでも、商品取引を仲介する仕事の説明を聞いたビリーが「要するにブッキー(bookie=ギャンブルの主催者)だ」といって納得するシーンもありました。

 確かに、市場での取引がギャンブル的な性格を持っていることは間違いありません。多くの人が、市場での取引に危険な匂いを感じるのも、そのためでしょう。ですが、市場は単なるギャンブルの場ではありません。経済全体にとって重要な役割を果たしているのです。それは、商品の需要と供給に関わるさまざまな情報を取り込み、生産活動の重要な目安となる「価格」という情報を生み出す役割です。

 一般に、ある商品の供給が需要を上回っていると、その商品は売れ残ってしまいそうになりますから、それを避けるために値下げしてでも売ろうということで、その商品の価格は下がり気味になります。逆に、需要が供給を上回っている状態ですと、売れ行きが良いわけですから、売り手としては、より多く儲けるために値上げを考えることになり、その結果として、その商品の価格は上がり気味になります。

 商品の生産者は、そういう「価格」の動向という情報をつかんだうえで、その後の方針を決めていきます。価格が下がっていれば、利益が出なかったり損をするということですから、供給を減らしたりストップしたりすることになります。逆に、価格が上がっているのであれば、儲けも大きくなりますから、供給の拡大を考えることになります。その結果、供給は需要に見合う方向に変化して、需要と供給はバランスに向かいます。そして、すべての商品で需要と供給がバランスすると、生産活動におけるムダがなくなり、経済全体として望ましい状態が達成されるというわけです。少々大雑把ですが、これが「価格メカニズム」とか「市場メカニズム」と呼ばれる、現代の資本主義経済の基本となる仕組みです。

 商品の種類が少なく、限られた地域の人々の間でしか取引が行われていなかった時代であれば、生産者と消費者が「いちば」のような一つの場所に集まって、価格の決定も、商品の受け渡しや代金の決済も、同時に同じ場所ですませてしまうことができました。ですが、商品の種類が膨大なものになり、生産者と消費者が世界規模で結びついた現代の経済は、「みんなが集まって」というスタイルでは動かせません。そこで、生産者から消費者へ商品を届ける役割は流通業者や運送業者、代金の決済は金融業者といった形で、専門の産業と仕組みが発展してきたわけです。裏返せば、生産者と消費者とをつなぐ、それらの産業や仕組みが発展したからこそ、経済が高度化できたということでもあります。  

そして、「大逆転」の舞台となったような市場の仕組みが、天然資源や農産物、汎用的な工業製品など、需要と供給が広範囲におよぶ商品を対象に、「価格」という情報を生み出す機能に特化する形で成立したのも同じ文脈です。市場を動かすのは需要と供給に関するさまざまな情報です。そして、市場が生み出すのも「価格」という情報です。市場とは、錯綜する多様な情報を取りまとめて、誰にでもわかるシンプルな情報に変換する装置だということもできるでしょう。

 これは、「モダンタイムス」の項で書いた「仕事の細分化」の潮流の一環でもあります。ただ、「モダンタイムス」のチャーリーが細分化された仕事で苦しめられたのに対して、「大逆転」の登場人物たちは、市場での仕事を楽しんでいるようにさえ見えます。それはやはり、市場での仕事に、人を夢中にさせるギャンブルの要素があるためでしょう。市場が的確な価格情報を生産するためには、そこに参加する人々が、それぞれ主体性を持って独自に情報を収集し、それをベースに取引を行っていくことが前提になるわけですが、彼らにそれを促しているのが、市場での取引の「勝てば儲かる」というギャンブル的な性質です。その意味で、市場の機能とギャンブル性は、切り離して考えることはできないのです。

 ただ、そうして生み出される価格情報も、常に的確であるとは限りません。時として、大多数の市場参加者が、誤った思い込みや、他の参加者の行動を基準に取引を行うことで、市場は実際の需給関係から導かれるはずの適正値から大幅に乖離してしまうこともあるのです。映画のなかで、市場の誰もがデューク兄弟の行動に追随したことでオレンジ相場が急騰したシーンが、まさにそれです。映画では、政府の収穫予想が発表されたことで、その日のうちに市場は反転しましたが、現実の市場では、実際の需給関係から乖離した価格が、もっと長い間、保たれてしまうこともあります。それが、「バブル」と呼ばれる現象です。それもまた、現代の市場が抱える構造的な問題の一つです。

 ITが進歩した現代では、1983年製作の「大逆転」で描かれたような、大勢の人が群がって取引する形の市場はすでに過去の遺物になろうとしています。ですが、ギャンブル的な要素を原動力に価格情報を生み出すという市場の本質に変わりはありません。常にバブルの危険をはらんでいるという点も同様です。有用ではあるけれど危険のタネも抱えている。そんな市場という存在を、どう活用し、どうコントロールしていくかは、私たちの経済が抱える古くて新しい課題だといえるでしょう。

 今回は、商品市場での仕事を取り上げましたが、次回は、エリア・カザン監督、ジェームズ・ディーン主演の「エデンの東」を題材に、より広い視点から、「仕事」の意義について考えてみたいと思います。

【今回の映画】
大逆転(83年、アメリカ)
原題:Trading Places
監督:ジョン・ランディス
出演:エディ・マーフィ、ダン・エイクロイド

【次回の映画】

Eden


エデンの東(54年、アメリカ)
原題:East of Eden
監督:エリア・カザン
出演:ジェームズ・ディーン

ディーバ-価値としての「情報」-

Diva


 “Diva”、イタリア語で「女性歌手」。「歌姫」と訳されたりもします。この映画に登場するのは、録音されることを拒み続け、若くして伝説的な存在になっている歌手、シンシア・ホーキンス(ウィルヘルメニア・フェルナンデス)。彼女の歌を聴くには、世界各国で開かれる彼女のリサイタルに出掛けていくしかありません。パリの郵便配達ジュール(フレデリック・アンドレイ)は、彼女に憧れ、フランス国内はもちろんドイツでの公演にも原付バイクで出掛けていくほどの、熱心な彼女のファンです。彼が住んでいるのは廃車置場のロフト。前の住人が壁や床に描いたポップアートに囲まれて高級オーディオ機器でクラシック音楽を聴くという、いかにもパリっぽいイメージの、アートに満ちた暮らしです。

 ジュールは、シンシアのパリでのリサイタルの後、たくさんの人でごったがえすバックステージに潜り込んで、初めて彼女と言葉を交わすことができました。そして、そこに掛けてあった彼女のステージ衣装を思わず盗んでしまいます。翌日、彼がそれを返しに行くと、はじめは怒ったシンシアですが、彼がいかに彼女に憧れているかを知ると、彼を許したうえ、デートの約束まで交わしてくれました。二人が薄明かりのパリの街でデートする場面は、この映画のなかで最も美しく印象的なシーンの一つです。歌姫の気まぐれと若者の憧れ。一途に燃え上がる恋とは違う、二人の微妙な関係が暗示されます。

 盗んだ衣装を返して、ジュールは憧れの歌姫との夢のような一時を手に入れましたが、彼が盗んだのは衣装だけではありませんでした。彼は、シンシアの歌声を自分のものにするため、リサイタルに高性能のテープレコーダーを持ち込んで、彼女の歌を密かに録音していたのです。それに気付いた台湾の海賊版業者が、そのテープを手に入れようと、ジュールに脅しをかけてきます。そのうえ、国際的な犯罪組織の黒幕の正体を暴く証言が録音されたテープまでが彼のもとに転がり込んできます。それを取り戻そうとする組織の殺し屋と警察も、彼を追い回しはじめます。シンシアとの静かで繊細なシーンとは一転、追いつ追われつのサスペンスフルな展開になっていきます。

 2本のテープを巡るストーリーには、現代の経済、社会における「情報」の重要性と、それ以前に「情報」という言葉の持つ意味について考えるヒントが含まれています。一般的な会話で使われる「情報」という言葉で思い起こされるのは、ジュールが手にしている2本のテープのうちでは、犯罪組織の秘密を暴露した方のテープでしょう。それを知ることで利益になる話や、知られることで損失をこうむるような話。「知識」という言葉に近いニュアンスです。それに対して、シンシアの歌声を録音したテープは、「生産活動の成果の一形態」すなわち「価値」としての「情報」を象徴しています。それは、現代の経済を理解するうえで、きわめて重要なコンセプトです。

 従来、私たちの生産活動の成果は「財」と「サービス」の二つの形態に分けて考えられていました。「財」というのは、食べ物や着るもの、機械や家具など、形のあるモノのことです。それに対して「サービス」とは、肩を揉んだり、服を洗ったり、部屋の掃除をしたりといった、生産者が消費者に直接的に奉仕する生産活動を指します。それぞれの性質を比べてみると、「財」の場合には、あちこちに運んだり保存・保管することで、生産されたのとは違う場所、違う時点で消費することができるのに対して、「サービス」は、運んだり保存したりすることはできませんから、生産と消費は同じ場所、同じ時間に行われるという違いがあります。

 ここで、シンシアの歌について考えてみましょう。彼女は自分の歌を録音されることを拒み、リサイタルに来てくれる聴衆のためだけに歌います。彼女の歌は、その場所、その時にしか消費できない「サービス」の性格を持っているわけです。ですが、彼女の歌を録音してCDにしてしまえば、どこでも、いつでも彼女の歌声を楽しむことができるようになります。マッサージやクリーニングのような普通の「サービス」では、そうはいきません。またCDの場合、それ自体は保存も輸送もできる「財」には違いないのですが、その価値の大部分は、ポリカーボネート製の円盤にではなく、そこに記録された彼女の歌声にあります。そういう性質の価値の形態を「情報」と呼ぶわけです。音楽のほか、各種の画像や動画、本にするための文章、コンピュータのソフトウェア、ゲームの仕組みやストーリーなどが、それにあたります。もちろん映画もそうです。広い意味では工業製品の設計やデザインなども含まれます。

 この「情報」のコンセプトが重要な意味を持ってきたのは、技術の進歩によって、音楽にしろ映像にしろ、情報をコピーして消費者に届けるためのコストが劇的に低下したためです。言語の成立や文字の発明からはじまって、紙、印刷、録音、録画、郵便、電信、電話、放送、インターネット、ブロードバンドと、情報を伝達する技術は人類の歴史を通じて加速度的に進歩してきました。音楽や映像といった「情報」を大量にコピーして多くの人々に提供するためのコストは、いまや、限りなくゼロに近づいてきています。

 しかも、衣・食・住の基礎的なニーズが満たされるにつれて、人々のニーズは、音楽や映像、物語など、心を豊かにしてくれる「情報」にシフトしてきています。衣料品や家電製品、自動車などの「財」にしても、消費者を惹きつけるのは、そのデザインや細かな設計といった、「財」に内包された「情報」の部分のウェイトが大きくなっています。その結果、歌手や作曲家、作家、ソフトの開発者、デザイナーなど、人々が求める「情報」を創造する、いわゆるアーティストやクリエイターと呼ばれる人々が、巨額の収入を手にする状況が生じてきているのです。もちろん、経済的な報酬だけが「情報」を創造するモチベーションではありませんが、多くの人に創造的な活動を促すインセンティブの一つにはなっているでしょう。それを保障するために、著作権とか意匠登録、特許など、さまざまな制度が用意されているわけです。アーティストやクリエイターの意向と利益を侵害し、その創造活動を停滞させかねない海賊版業者の行為は、社会に対する敵対行為でもあるわけです。

 もっとも、この映画のシンシアの場合には、海賊版のみならず、自らが創造する「情報」をコピーして販売するやり方を一切拒んでいます。彼女は言います。
「音楽とは流れ来て過ぎ去っていくもの。歌手にも聴衆にも唯一の、一度限りの時間です。それを手元に置こうとしてはなりません。」

 いくら技術が進歩してもコピーはコピー。伝えられる「情報」には限界があります。自らの芸術を追及するアーティストとしての彼女の姿勢は、十分理解できるものです。ですがその一方で、社会全体の利益のためには、人々を幸せにする「情報」は、たとえ不完全であってもどんどんコピーして、多くの人が手に入れられるようにした方がベターだというのも確かでしょう。現代の社会においては、アーティストやクリエイターの意思や利益を尊重することで「情報」の創造を促しながら、それをできるだけ多くの人に提供できるような、バランスの取れた仕組みを構築することが重要になってきているのです。

 次回は、ジョン・ランディス監督、エディ・マーフィ、ダン・エイクロイド主演の「大逆転」を題材に、現代の経済における「情報」のもう一つの側面について考えてみたいと思います。

【今回の映画】
ディーバ(81年、フランス)
原題:DIVA
監督:ジャン=ジャック・ベネックス
出演:フレデリック・アンドレイ、ウィルヘルメニア・フェルナンデス

【次回の映画】
Daigyaku
大逆転(83年、米国)
原題:Trading Places
監督:ジョン・ランディス
出演:エディ・マーフィ、ダン・エイクロイド